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バナナはおやつに入るのか:自炊至上主義と食のイデオロギーについて

「バナナはおやつに入りますか?」

小中学校の遠足あるいは修学旅行といった課外活動では、ふだんは認められていないおやつを持参できる。そのとき、持参できるおやつの料金に限度額が設けられることがある。そこで児童が教員に向かって冗談のようにして、おそらくは教員を困らせるためだけに発せられるのが「バナナはおやつに入りますか?」という問いである。

教員はすぐさま答えることはできる「入りません」

しかし、なぜ入らないのかと考えはじめた途端、わたしたちは困惑し始める。例えば、りんごはおやつに入るだろうか。日常の生活を考えてみよう。例えば親が子どもにおやつあるよ、と言ったときに切ったりんごが置いてあったらどうだろうか。それほどおかしな感じはしないはずだ。次にそのままのバナナの房が置いてあったらどうだろうか。すこし怪しくなるのではないだろうか。次に、焼きおにぎりはおやつに入るだろうか。入る気がする。もちろん、チップスターやポテトチップス、キットカットはおやつに入るだろう。ここで一つの仮説が得られる。

おやつ仮説1 調理されたものはおやつになりうる

なぜなら、果物でもパイナップルそのままが机の上にあるとおやつらしくないが、切ってあるとおやつである。バナナも房のままであるとおやつではないが、切ってあったりするとおやつである。焼きおにぎりもまた、調理されたものであるためにおやつでありうる。チップスターやポテトチップスやキットカットも調理されているのでおやつになる。

しかし、調理したものならばすべておやつになるわけではない。牛丼はおやつではない。なぜか。もう一つの仮説がある。

おやつ仮説2 満腹になることが目指されている調理品はおやつではない

牛丼、オムライス、カレー、焼きそば、シチューはおやつではない。なぜなら、それ一品で少なくとも八分目以上の満腹感を目指しているからである。

こうした意図説はかなり素性がよいかもしれない。すると、おやつの特徴はそのおいしさであると考えられる。

おやつ仮説3 おいしさのみをもっぱら目指したものがおやつになりうる。

もちろん、おいしさとは異なるよさがある食品、例えば、ヘルシーな豆腐やおからをおやつにできる。しかし、それはダイエットを行っている人やよっぽど豆腐やおから好きであって、かなり多くの人にとっては豆腐やおからはおやつではない。なぜなら、ヘルシー過ぎるからである。

以上をまとめるならば、おやつは、満腹を目指しているわけでも栄養があるわけでも健康にいいわけでもなく、ただおいしさをもっぱら目指した調理されたものを指す

ゆえに、バナナはおやつに入らない。バナナは栄養があり、健康によさそうで、おいしいのだがおいしさだけをもっぱら目指しているものではないし、調理されていないからである。もしバナナを切ってはちみつをかけたものを持参すればそれは間違いなくおやつであろう。

これでおやつの概念分析がなされたわけだが、実は私が気になっているのはおやつの概念ではない。私が気になるのは、食のカテゴリの奇妙さである。

なぜ調理されたかどうかでカテゴリが変わるのだろうか。なぜ牛丼はおいしいのにおやつに入りづらいのだろうか。なぜふつうの食事のカテゴリとべつのカテゴリがあるのだろうか。さらに考えれば「お菓子」はいったいどのカテゴリに入るのだろうか。

この食のカテゴリの振る舞いには哲学的に深遠なところがある。

なぜお菓子ばかり食べてはいけないのか?

お菓子ばかりを食べている子どもは叱られる。大人が羽目を外すときにはお菓子を大量に食べたりする。「お菓子」という言葉には、軽いもの、正規ではないもの、おもちゃのようなもの、なにより、日々のまとも食事に比べて低い地位にある食物であること、といった軽薄さや重要でなさの響きがする。

お菓子は食べ物としてのヒエラルキーが低い。ここから私たちにある何らかの「食べ物ヒエラルキー」の存在をかいま見ることができる。この食べ物ヒエラルキーを分析することは、哲学的にあまり取り組まれていない印象がある。だが、私たちが何をまともな食べ物として何をまともではない食べ物としているのかを考えることは、例えば「惣菜」を買うことを「手抜き」だと考える人や、料理ができないことを「恥ずかしがる」現象の分析においては重要だろうし、とりわけ、家庭内でしばしば、いまだ女性が料理をすることが前提にされたり「料理がうまい女性がよい」といった物言いがありうる現在、社会批判的な作業にもつながるだろう。

この食べ物ヒエラルキーが前面に現れるのは自炊をめぐる言説においてである。
私たちは、いつのまにか自炊至上主義なのではないか。

自炊至上主義:自らの手で調理を行い調理品を食べることがえらいという立場。

たとえば、毎日恵比寿のロブションに行って高級料理を食べている人と、毎日料理を作っている人のどちらがえらそうだろうか。おそらく毎日料理を作っている人のほうが何がとは明言できないものの、なにか「えらさ」を持っているように思われる。毎日ウーバーイーツを頼んでいる人に対しても同じように「えらくなさ」を感じることができるだろう。

この「えらさ」とは何なのだろうか。一つは、身の回りのことを自分の力でできるという能力、すなわち、ある種の自律性の善がここでえらさを醸し出しているのかもしれない。自分で料理をせずに毎日高級料理を食べている人は、たしかに舌が肥えているかもしれないが自分で自分の腹を満たすことができないために自律性がない。お店が潰れたらその人は食べるところに困る。だから「えらくない」のだ。

しかし、私たちは自分で服を作れないし家も建てられない。洗濯も洗濯機にしてもらっている。だとすればなぜ料理という作業においてのみこれほど自律性が要求されるのだろうか。この料理の例外的な扱いはどこから生じるのだろうか。

それはお菓子の話に戻ると、お菓子ばかり食べていることの「怠惰さ」ともつながる。お菓子ばかり食べている人は食べ手としてえらくないのである。

食べ手のヒエラルキー:「ちゃんとしたご飯」を食べている人の方が食べ手としてえらい。

自炊至上主義、すなわち、作り手のヒエラルキーと食べ手のヒエラルキーが組み合わさるとき、お菓子を食べている人はもっとも食のヒエラルキーが低くなってしまう。サプリメントばかり食べている人は、食べ手としても作り手としても食のヒエラルキーが低くなってしまう。

こうした食のヒエラルキーは害のないものだろうか。害はありそうだ。先程も述べたように、「ちゃんとしたご飯」を作ることがとりわけ女性に対して抑圧的に要請されることは散見されるし、時間がなくて「ちゃんとしたご飯」を食べることが難しい人もいるだろうし、それぞれの身体的な特性によって流動食やおやつ・お菓子と呼ばれるものを中心に食べる方が生活の質を上げてくれる人もいるだろう。

だとすれば、この食の作り手と食べ手のイデオロギーは改訂すべきものなのだろうか。部分的にはそのように思えるが、このイデオロギーにどのような思いを人々が掛けているのかを分析することなしには改訂することも難しそうだ。そうした作業がどのように行えるのかはまだ不明だが、重要な作業であることは間違いない。


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