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テルアヴィヴ/48イスラエル, 1983年10月7-9日 〜 ガザから来ていたパレスチナ人一家, そして テルアヴィヴのユダヤ人, パレスチナ人

1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, そしてトルコ・シリア・ヨルダンを旅し, 9月28日からはパレスチナ/イスラエルの旅。本 note 第1章はパレスチナ/イスラエル問題の概観に関して, 第2章はテルアヴィヴ見聞録その1 に当たるもの note リンク。その続きとなる 10月7-9日のテルアヴィヴ見聞録は本 note 第3章以降。

「48イスラエル」, パレスチナ/イスラエル問題 概観

以下の前々回 旅 note 第1章が 「48イスラエル」, 「47イギリス委任統治領パレスチナ」, そして第2章が パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇, 「ナクバ」 で, 第3章以降は「ハイファに戻って」見聞録など。

テルアヴィヴ/48イスラエル, その1 〜 ディアスポラ博物館を訪ね, 街ではパレスチナ人達にも会い(1983年10月6-7日)

前回の旅 note, 目次(第2章は1983年4月26日に日本を旅立って以降, パレスチナ/イスラエルに入る前までと入ってからの旅の振り返り note リンク)と共に。

1. ディアスポラ
2. 1983年4月26日に日本を発って 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り
3. ディアスポラ博物館(イスラエル, テルアヴィヴ大学)を訪ね, 街ではパレスチナ人達にも会い 〜 1983年10月6日・7日
4. 「ユダヤ人の著名人物」 で真っ先に浮かぶのは 〜 アインシュタイン?
5. ユダヤ人ミュージシャンと言えば, 自分には, ポール・サイモン
6. 風に吹かれて 〜 現代の世界で一番有名な, 大衆的知名度, 認知度が最もあるユダヤ人は, ボブ・ディラン?
7. グスタフ・マーラー
8. マーラーを出したら ... ボヘミアン・ラプソディ ♫

テルアヴィヴ(48イスラエル), 1983年10月7-8日 〜 写真5枚

写真 1) 1983年10月7日(金), 以下の引用は 次章の旅日記 2/12 より。

少し登った芝生のところで アラブ人らしい家族を見る。話しかけてみると やはりパレスチナ人だった。たくさんいた。ガザから来たとのこと。

2005-6年以降, 既に15年間 イスラエルによって軍事封鎖され, 陸の孤島と化して時に「世界最大のゲットー」「世界最大の収容所」と形容されるガザ地区だが(物資の搬入すら制限され, 癌などの難病を患った人が軍事封鎖の強い影響下で疲弊した医療環境にあるガザ地区を出てヨルダン川西岸地区や「48イスラエル」内の都市にある病院に行って治療を受けようとしても, イスラエル側の許可がなければガザ地区を出られない状態), 筆者が旅した1983年当時は(後日, パレスチナ/イスラエルの旅の最後にガザ地区を訪れて同地区に滞在, その後, ガザ地区から陸路, 次の訪問国エジプトの首都カイロに向かった), ガザ地区も東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区と同様に 1967年6月のイスラエルによる軍事侵攻以来の軍事占領下にあったものの, 現在とは違って, ガザ地区から出て「48イスラエル」の都市であるテルアヴィヴにやって来るようなことも可能だった。2021年現在の状況から見れば信じられないような時代。  

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写真 2)

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写真 3) 真ん中は当時23歳の筆者(前の月, 1983年9月11日に, シリアのパルミラで23歳になっていた)。

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写真 4) 1983年10月8日(土), 見たところ平和な風景, テルアヴィヴの公園で寛ぐイスラエル人(ユダヤ人)一家。

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写真 5) テルアヴィヴで親しくなった, テルアヴィヴのパレスチナ人(「アラブ系イスラエル市民」)の若者。

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さて, 

次章は見聞録。

テルアヴィヴ, 1983年10月7-9日 〜 ガザから来ていたパレスチナ人一家, そしてテルアヴィヴのユダヤ人(48イスラエルでは多数派のユダヤ系イスラエル市民)とパレスチナ人(アラブ系イスラエル市民)

本章では, 当時の 旅日記12ページ分 を取り上げるけれど ... けれど, というのは, 

パレスチナ/イスラエルの旅の前の前の訪問地域であるシリアの旅 note 辺りから当時の旅日記を振り返りながらその記述をわりあいと丁寧に取り上げてきていたのだが, 今日のこの本 note の下書きに10日ほど前に若干取り掛かった後, 全く別件のことで色々と疲れることがあって(そもそもこの note の内容とは全く関わりないことだけど), しばらく下書きを放置してしまった。本年4月下旬から38年前つまり1983年の同時期に始めたユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅を振り返る note 連載をしてきたんだけど, 少し前から遅れが出始め, 期日として38周年のタイミングに合わせて各国各都市各地域の旅 note 投稿をすることができなくなってきた。

というわけで, そろそろこの連載, ちょっと手を抜こうかなと(!)。というか, 旅日記にはギッシリと書き込んであることが多く, 近頃その記述を精査しながらなんてことをやる時間的余裕を確保できなくなっているので, 以下の旅日記の 4/12 以降については, とりあえず貼り付けるだけで一部引用して強調みたいなことも割愛してしまおうと思う。幸いこの辺りではそれほど酷い殴り書きでもないので, スマホはともかく, PCのまぁまぁ大きなディスプレイなら読めると思う(読む人がどれだけいるかは謎なのだが!)。また機会があったら, 今日の note で端折った部分に関してはあらためての note 投稿で取り上げるかもしれない。

以下, 旅日記 3/12 までは1週間ぐらい前に本 note 下書きの続きをやった時に少し丁寧に引用・補足などしているので, そこはそのまま活かすことにする。  

旅日記 1/12 

冒頭の1行,

本 読んで 早く寝た。※ museum の中では ユダヤ人の音楽が流れてた。 

は, 前日 1983年10月6日 に関しての最後の行。"museum" とは前々章にリンクを付した前回の旅 note で取り上げた, テルアヴィヴ大学構内のディアスポラ博物館のこと。

さて, 1983年10月7日 は, 朝食をとった後, 

バスで OLD JAFFA へ。
モスクに入った。細々とだが 使われてるようだ。中の広場で 若い パレスチナ人 が何か作業してた。No Entry とあったが 広場へ入れてくれた。アラビア語であいさつだけした。外を歩いても, よくアラブ人を見る。かなりいるのではないか。モスクが改造されてレストランになったようなのをいくつか見た。

「ヤッファ(ヘブライ語: יפו‎、アラビア語: يافا‎, Jaffa)は、テルアビブにある地区。」「4000年以上前の古代都市からの歴史を有するという、イスラエルに所在する地中海に面した港町。現在イスラエルのテルアビブに併合された市街地はテルアビブ中心部からみて南部に位置する。」「イスラエル建国以来、この地区はイスラエルを代表するスラム街であった。麻薬を打つための注射針などもよく落ちていたと言う。だが、近年になり、ヤッフォの旧市街は『芸術の街』として生まれ変わり、旧市街にはアラブ・ヘブライ劇場も設立されている。ただ、隣接するパレスチナ系住民が多いアジャミ地区は、2010年現在も貧民街のままであり、ユダヤ人による土地の買占めや、行政の怠慢に憤りを感じている住民も多い。」

(旅日記のこの頁の右側は個人情報, 知り合った旅人の住所)

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旅日記 2/12

少し登った芝生のところで アラブ人らしい家族を見る。話しかけてみると やはりパレスチナ人だった。たくさんいた。ガザから来たとのこと。

彼らとのやり取りは以下の旅日記の頁(写真)の上記引用部分に続く3行目以降。

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この時に撮った写真は前章に掲載(最初の3枚)。その 写真 1) のところに書いたことを再度, 以下に。

2005-6年以降, 既に15年間 イスラエルによって軍事封鎖され, 陸の孤島と化して時に「世界最大のゲットー」「世界最大の収容所」と形容されるガザ地区だが(物資の搬入すら制限され, 癌などの難病を患った人が軍事封鎖の強い影響下で疲弊した医療環境にあるガザ地区を出てヨルダン川西岸地区や「48イスラエル」内の都市にある病院に行って治療を受けようとしても, イスラエル側の許可がなければガザ地区を出られない状態), 筆者が旅した1983年当時は(後日, パレスチナ/イスラエルの旅の最後にガザ地区を訪れて同地区に滞在, その後, ガザ地区から陸路, 次の訪問国エジプトの首都カイロに向かった), ガザ地区も東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区と同様に 1967年6月のイスラエルによる軍事侵攻以来の軍事占領下にあったものの, 現在とは違って, ガザ地区から出て「48イスラエル」の都市であるテルアヴィヴにやって来るようなことも可能だった。2021年現在の状況から見れば信じられないような時代。 

旅日記 3/12

ギリシャで知り合ったアメリカ人の旅人の住所が書かれていた頁を挟んで(たぶん日記を書く都合上 何気なくだいぶ後ろの頁に記載していたものと思われる, この頁はもちろんここには掲載しない), 以下, 1983年10月7日の在テルアヴィヴ旅日記の続き。

エジプト, ヨルダン には行けるみたい。

前項, 旅日記 2/12 のところに書いた通りで, これも隔世の感。この15年間のイスラエルによるガザ地区封鎖は非常に厳しく, ガザ地区のパレスチナ人たちは今, ヨルダンどころか, 1967年6月以降の被占領地パレスチナであるヨルダン川西岸地区にも行けない(癌などの重大な病気に罹患した場合に, イスラエルに申請して許可を得られたならば辛うじて治療目的のみで行くことが可能)。そしてエジプト側のボーダーもエジプト政府が閉鎖する時がしばしばあり, ガザ地区の人々の地区外への移動は非常に困難。まさに陸の孤島, 巨大なゲットーのようになっているのが今現在のガザ地区。要するに, 現在のガザ地区の劣悪な生活環境は, 1983年当時のそれとはかなり様相が異なる(その時もイスラエルによる直接の軍事占領下にあって不自由だったわけで, 当然ながら当時のガザ地区の状況が良かったという意味ではないのだが)。

ナセルはよかった と言った。

「ナセル」とは勿論, エジプトの元大統領, 1983年当時既に故人だったガマール・アブドゥル=ナーセル(جمال عبد الناصر‎, Gamal Abdel Nasser; 1918年1月15日生まれ - 1970年9月28日他界)のこと。

ディール・ヤシン, サブラ・シャティーラのことも口に出た。

「ディール・ヤシン」とは, 1948年5月のイスラエル「建国」前, 1948年4月にパレスチナのディール・ヤシン村で起きた, シオニスト民兵たちによるパレスチナ人村民虐殺事件のこと(犠牲者100人以上)。因みにその時の加害者側つまりテロリスト達のリーダーだった人間がメナヘム・ベギン, 後のイスラエル首相。

また, 「サブラ・シャティーラ」とは, 筆者がパレスチナ/イスラエルを旅した1983年の前年1982年のイスラエルによるレバノン軍事侵攻の際, 同年9月にレバノンの首都ベイルートにある, イスラエル軍が包囲していたパレスチナ難民キャンプ(サブラ・シャティーラ)において, イスラエル軍の協力のもと, レバノンにおけるイスラエルの同盟者であったキリスト教右派民兵たちが起こした, パレスチナ難民やレバノン人市民に対する虐殺事件(犠牲者は3,000人以上とされる)を指す。

*「サブラ・シャティーラ」については, 以下 note ボブ・ディランのイスラエル支持ソングは, 1982年のイスラエルのレバノン侵攻と同年9月のベイルートにおけるパレスチナ難民虐殺事件の直後に書かれた に掲載。

さて, 話を戻して, 1983年10月7日に テルアヴィヴで知り合った, ガザから来ていたパレスチナ人たちとのやり取りについては, 以下に若干の記載。

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上掲の旅日記写真の後半は, テルアヴィヴに滞在した時の宿の方に戻ってからの話。

バスでもどる。きのうのファラフェルの店へ。今日はきのうのユダヤ人でない人。アラブ人にも見えたが わからん。若いパレスチナ人もいた。ニッコリする。ファラフェルとコーラ2本で出る。

「きのうのファラフェルの店」に関しては, 前回の旅 note に(以下の *1)。

川原沿いの木のベンチにすわる。少年や少女, 家族。週末のふんいき。幸せなユダヤ人家族。楽しそうな老夫婦とその(たぶん)孫たち。写真とらせてくれとたのんだが なぜかダメだった。

「写真とらせてくれとたのんだが なぜかダメだった」, でも一方で, そりゃそうだよな, とも思った。それはそうだろう, とは思う。

*1

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旅日記 4/12 

最後から4行目までは 1983年10月7日に書いている(以降は1983年10月8日)。

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旅日記 5/12

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旅日記 6/12

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旅日記 7/12

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旅日記 8/12

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旅日記 9/12

イスラエリ・ユダヤ人がこの地に対する考え方を改めない限り, この地は決して彼らにとっての安住の地にならない。'67年以降の占領地のみでなく, おそらくはそれ以前の占領地に住むパレスチナ人のほとんども, その意識(パレスチナ人としての)は高いだろう。

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旅日記 10/12

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旅日記 11/12

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旅日記 12/12

1983年10月9日(日), テルアヴィヴを発って, エルサレムに戻った。

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さてさて, 今日の本 note の最後も, 

音楽で締め ♫

こわれもの 〜 イエス(1971年)

前章の旅日記 9/12, 少し旅日記からの引用を掲載した。旅日記はその頁以降も面白いこと(まぁなんというか意味があると思うこと!)を書いてあるので, 読んでもらえたらと思う。

さて, 地球も, 地球の平和も中東(日本から見れば西アジア)の平和も, そしてパレスチナ/イスラエル地域の平和も, みんな「こわれもの」なんだ, こわれやすいんだ, 大事にしよう。

というか, パレスチナ/イスラエルにおいては特定の人たちの自由が, 基本的人権が侵害され, そのことで地域全体の平和も長い間, 損なわれ続けている。そこに住む人々の間の不平等や不公平を是正し, 人間の尊厳や自由をもっともっと大事にしない限り, 「こわれもの」を頑丈なものにすることなどできないね。

以下はフル・アルバム, しかし将来このフル・アルバムのクリップが YouTube 上で「こわれ」た時に備えて, その下で Mood for a Day だけあらためてピックアップ ♫

FRAGILE 〜 Yes' fourth studio album released on November 26, 1971 ♫

00:00 Roundabout
08:31 Cans and Brahms
10:14 We Have Heaven
12:05 South Side of the Sky
19:38 Five Per Cent for Nothing
20:40 Long Distance Runaround
24:04 The Fish (Schindleria Praematurus)
26:41 Mood for a Day
29:41 Heart of the Sunrise
40:31 We Have Heaven (reprise)

Mood for a Day 〜 from Yes' 1971 album FRAGILE ♫


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