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初詣大作戦・前編

早いもので今月も後僅か。
少し前まで、おせちを食べたり初詣をしたりしていたというのに、本当に月日が経つのは早いものです。

さて、正月といえば、皆さんも初詣を行かれたたかと思います。
今では、電車などに乗って有名な神社に行くのが当たり前になっていますが、この初詣の風習は、明治中期以降に東京や都市部で誕生した風習だったのでした。

では、江戸時代はどうだったのかというと、この頃は初詣の風習はなく、徒歩で行ける範囲内にある寺社に、元旦から月末までの

初卯、初不動

といった初縁日に参詣、

あるいは、元旦に氏神様や、その年の恵方(歳特神のいる方角)に当たる寺社への恵方詣等が正月の参詣の中心でした。

この正月の参詣は、明治五年の改暦後も新暦の日取り合わせて変わらずに行われていました。

しかし、日曜週休制と年頭三が日が休日の慣習が定着してくると、

三が日が参詣しやすいという理由

で、元旦であれば初縁日でなくても参詣する形がごく一部で生まれました。

しかし、これはあくまでもごく一部で、中心はあくまでも初縁日の参詣か恵方詣でした。

また日曜週休制と年頭三が日休日の慣習が定着し『元旦』の重要性が上昇することによって、

むしろ恵方詣がより盛んになっていました。

ところが、明治二十年代に縁日、恵方にこだわらずに参拝する形態

つまり「初詣」

が定着していたお寺がありました。

それは正月のテレビCMや新聞、電車の吊革広告でお馴染みの

川崎大師平間寺 略して川崎大師

でした。

そして、初詣は川崎大師から始まったのでした。

明治五年六月に、前月開業した日本発の鉄道路線・品川ー横浜間の途中駅に川崎停車場(現在の川崎駅)が設けられました。

明治二十年代でも、鉄道による通勤、通学はまだ定着しておらず、汽車は特定の日のハレの日だけに利用する乗り物でした。
(高級寿司1人前が十銭の時代、新橋~横浜間の普通クラスの運賃が三十六銭ですから、おいそれと乗れません。)

そんな中で、「ちょっくら汽車にのってでかけようか」

と、時間と労力もかけずに汽車で簡単に行って行楽もかねて参詣できる川崎大師は、魅力的なスポットになったのでした。

また、川崎大師平間寺も川崎駅から平間寺に至るまでの約二キロの新道を開通させ、道中に桜を植えるなど環境整備を行い、川崎大師の魅力を引き立てる努力をした結果、正月は臨時列車を出すほどに参詣客が訪れるようになったのでした。

そして、そこにビジネスチャンスを見出した一人の人物によって初詣が全国に広まっていくことになるのでした。

という事で千文字になったので続きます。


参考資料・サイト
『明治期東京における「初詣」の形成過程 』
平泉昇 著


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