世界の背振 赤い翼と日本人
福井県と佐賀県の県境に標高1055m、脊振山系最高峰の山、背振山があります。
地元の方以外、多くの人が知らないであろう、この背振の山の名が、実は、昭和11(1936)年、世界中に知れ渡ったのでした。
明治36(1903)年12月17日のライト兄弟の初飛行によって実用化の道が開かれた飛行機。
その後、飛行機は大正3年(1914年)に勃発した第一次世界大戦中の約4年間に軍用として活用された結果、飛躍的な進歩を遂げました。
そして戦後
飛行機の活用を民間でも模索しはじめ、民間事業のための航空路開拓や、懸賞金を伴なう記録への挑戦が相次いで行われるようになり
ニューヨーク-パリ間の大西洋単独無着陸飛行に成功したリンドバーグ
や
空軍殊勲十字章、レジオン・ド・ヌール勲章などを授与されたアメリカを代表する女性飛行家アメリア・イアハート
など、数多くの飛行家が誕生し、世は
大飛行時代
を迎えました。
そして、世界中の人々は、数多くの飛行家の活躍に熱狂していたのでした。
そんな、大飛行時代の真っ只中にあった昭和11年(1936)11月19日の午後4時20分頃
南方で発生した季節外れの台風の影響で雨が降り霧で山全体が覆われた背振山に一機の飛行機が墜落しました。
山の四合目あたりで、炭焼きをしてた7~8人の村人達は、霧で何も見えない中で飛行機の爆音が頭上を通過したのち、木々をなぎ倒す音を聞き
「こりゃ大変! 今の飛行機が落ちちゃなかろうか!」
「すぐに助けにいかにゃ!」
と慌てて救出に向かいました。
一方、ふもとの村でも飛行機が山に突っ込んでいくのを目撃した村人の通報を受け、捜査本部が立てられると消防団の人たちが蓑笠をつけ鎌、のこぎり、提灯などを手に山へと向かっていました
山は雨の影響で、お互いが見えないほどの霧が山全体を覆っていました。
その中を捜索に向かった人たちは、二次遭難にあわないように、組を作りお互いの名前を呼び合いながら提灯で周りを照らし、のこや鉈で枝を払いながら捜索を続けました。
そして、なんの手がかりもみつからないまま3時間が経過。
寒さと疲労が捜査隊を襲い、霧がさらに深くなり二次遭難の危険性が高くなり捜索を打ち切ろうとした時です。
先に捜索に向かった炭焼きしていた村人たちが、六十度の急斜面の樹木の中に突っこんでる赤い機体を発見しました
機体は潰れ、翼は折れるという無残な状態
村人達が恐る恐る機体に近づくと中からうめき声が聞こえてきました。
操縦者が生きているのを知り、助けるために中を見た時、人々は驚きの声をあげました。
なぜなら、操縦席の中で血まみれになってうめき声を出している男は赤い髪と青い目をした外国人だったのです。
彼の名前はアラン・ジャピー、1904年生まれの32歳のフランス人。
フランスのプジョー自動車会社の大株主を父に持つ彼は、同社の技師であると同時に、2回の地中海横断をはじめ
パリーオスロ(ノルウェー)間往復2900キロを14時間45分
パリーサイゴン間 98時間52分(新記録)
パリーモスクワ間 5800キロ 20時間30分
といった数々の長距離冒険飛行で記録を出しフランス政府からレジョン・ド・ヌール勲章を授かった新進気鋭飛行家でした。
そんな彼が何故、九州の背振の山で血まみれになっているかというと
彼は昭和11年(1935年)にフランス航空省が
日本ーフランス間
の新規航空路線開拓目的で行った
「パリからハノイを経由して東京まで100時間以内で飛んだ者に、60万フランの賞金を与える」
という懸賞飛行に参加し、東京を目指していたからでした。
ちなみに60万フランは、現在のおよそ九億円です。
この懸賞飛行は、日本でも大々的に報道され、ジャピー氏を含め名立たる飛行機乗りの4人が参加を表明しました。
そして、世界が注目する中、トップバッターとして11月15日午後11時46分にジャピー氏はル・ブールジュ空港を飛び立ちました。
他の3人の飛行家は2人乗りの機体で挑もうとしていた中、ジャピー氏は単独での挑戦でした。
ブールジェ空港を飛び立ったジャピー氏の飛行機は
ダマスカス
カラチ
アラハバット
ハノイ
に寄った後、最後の中継地香港に18日午後5時10分に到着
全コースの5分の4をわずか56時間あまりで飛行し、100時間以内に東京到着は、ほぼ目前に迫りました。
記録達成と賞金を目指しジャピー氏は燃料を補給したら夜のうちに出発し、19日の朝に東京到着の予定を立てました。
ところが燃料を入れている間に天候が変わり風が強く吹き始めました。
パリを出発してから2日半の間、睡眠時間はわずか15分だったことあり、ジャピー氏は様子見をかねて眠ることにしたのですが、翌日になっても天候は変わりず、功を焦ったジャピー氏は悪天候にもかかわらず午前6時半に啓得空港を飛び立ったのでした。
中国大陸に沿って800キロメートル北上したジャピー氏は機首を日本に向け、そこから1200キロもある東シナ海を超えようとしました。
ところが、東シナ海を越える時にシベリアから中国大陸を通って南に下りてくる冬の低気圧にぶつかってしまいました。
ジャピー氏は激しい雨風、厚い雲の層などに悩まされながらも、なんとか長崎上空に到達出来たのですが、時間は午後4時過ぎ、しかも燃料は1時間分しか残っていませんでした。
そこで東京到着は諦め、福岡の雁ノ巣飛行場へ向かう事にしたのですが、当時、飛行方位の測定は全て肉眼による視察に頼るしかなく、氏も地上2~300の低空飛行で飛行場を探していた時に、濃霧の中で背振山にぶつかってしまったのでした。
「・・・私は真っ直ぐに福岡に向かいました。
あと数キロメートルという所で私は山岳地帯を通らねばなりませんでした。
ところがその山頂の幾つかは濃い霧にかくされておりましたので私は迂回することに決めました。
と丁度その時烈(はげ)しい突風に襲われて私の頭は何かの金具に打ちつけられました・・・(中略)・・・突如、目の前に山の形が浮かびました。
と、私は全馬力を出して絶体絶命の急上昇を試みました。この操作によって遭難を避ける事はできませんでしたが、少なくとも災害を軽くしてくれました。
機体は山に衝突しないで、山の腹に平面に落ちたのでした・・・」
福岡日日新聞 ジャピー氏の放送 より
こんな山奥で外国人を見る事なんてまずありませんから。背振山中に墜落したしたジャピー氏を見て村人は驚き恐怖しました。
一方のジャピー氏も蓑傘をつけ斧や縄で身構え提灯を持っている男たちを見て山賊、人食い人種と勘違いして
「フランス、ジャピー フランス、ジャピー」
と必死になって叫びました。
その叫び声を聞いて我に返った村人たちは、駆けつけてきた消防団人達と共に飛行機からジャピー氏を運び出し、応急処置を施し担架を作ると雨が降り続ける中、村の診療所まで運んだのでした。
診療所に着いたのは午後11時過ぎ、あと2時間発見が遅れていたらジャピー氏の命はなかったそうです。
ジャピー氏の怪我は
左大腿骨の下三分の一が全身骨折
額に長さ8cm、頭骸骨に届く程の傷
頭の左右に深さ3センチ、左側は骨膜に、右側は皮下組織に届くほどの傷の重症でした。
診療所の牛島医師が応急処置が施され、夫婦で、その夜はジャピー氏につきっきりで看病しました。
また、近所の人たちもコーヒーやミルク、梨などを持ち寄り、また湯たんぽのお湯をかえたりと色々と気を使いました。
牛島医師は、のちにフランス大使から
「ジャピー全快の大部分はあなたのおかげである」
という感謝状が贈られました。
このようにして救助されたジャピー氏の事は、牛島医師が、ラジオでジャピー氏の消息不明のニュースを聞いていたことから、怪我人がジャピー氏だと分かり、背振の郵便局長 八谷源吾氏によった佐賀の各方面に伝えられ、
翌朝、各通信社から
「ジャピー重傷を負ったが命に別状なし。墜落したところは九州のセフリ」
のニュースが全世界に向けて配信されました。
今よりも通信網が発達していなかった時代、
香港から飛び立ったから4時間、予定通りに羽田にも到着せず、消息不明だったジャピー氏の無事が報じられると氏の安否を気遣っていた世界中の人は安堵したそうです。
翌朝、佐賀県立病院と九州大学付属病院の医師と看護婦、福岡のフランス人ブルトン神父、日本赤十字、取材陣が駆けつけ、背振村の道は自動車の列でふさがれるほどでした。
そして、集まった世界中の記者達によって、ジャピー氏の遭難とジャピー氏を救助した村人たちの献身的な行動を称える電文を発信し、背振の村は「世界の脊振」として一躍有名になったのでした。
ジャピー氏は本格的な治療を行うために設備の整った九州大学付属病院に移されることになり、その事を聞いて集まってきた村人達に見送られながら村を去っていきました。
また機体は22日に大使館からやって来たブリエール航空武官とシェリバ技師が背振消防団の協力の下、山から引き下ろし回収しました。
この時も、技師は手伝ってくれた村人達の国際愛に感動し感謝したそうです。
一方、九州大学付属病院に移されたジャピー氏は、名立たる飛行家だったことあり、日仏親善のために特別室に入れられ治療に最善が尽くされました。
「東洋は未開発な島国だから、山奥には山賊や人食い人種が住んでいる、東京に行かなければちゃんとした治療は受けられない」
と思っていたジャピー氏でしたが、
背振の村の人々の親切、牛島医師の立派な応急処置、九州医大での優れた技術による治療、そして、全国から送られてきたジャピー氏への見舞状や励ましの手紙の数々に、これまで抱いていた日本への偏見を改めました。
ジャピー氏は順調に回復し、翌月の12月13日には、病床よりラジオ(JOLK福岡放送局)に出演。
12月24日には報知新聞に遭難の詳しい手記を寄せ、懸命の救助にあたった脊振村の人々や医療関係者、見舞状をくれた全国の人々にお礼と感謝の言葉を述べました。
事故から4ヶ月、桜のつぼみが膨らみ始めた3月10日
まだ痛みは少し残り松葉杖での歩行ですが、退院することができたジャピー氏は、22日に、もっとも世話になった脊振の人たちに、礼と別れを言うために再訪、村人の大歓迎を受けました。
その後、3月24日に東京に行き、帝国飛行協会総裁梨本宮殿下にお礼を述べるなどしてから31日にフランス郵船、プレジダン・ジメール号で帰国しました。
ジャピー氏はパリ・東京間の飛行には失敗したものの、パリ、ドバイ間で世界公認記録を作ったので、フランス政府からオフィシェ・ドラ・レジョンド・ヌール勲章を授与されました。
またこの事件でフランス政府は、まじめな運動精神を曲げてはいけないと考え懸賞金を取り止めました。
しかし、懸賞金がなくてもジャピー氏の後に続き記録を目指す人が次々とパリ・東京間の飛行に挑みましたが、成功する人は現れませんでした。
多くの人たちに再チャレンジを期待され、
「また日本に飛んで行きたい」
と望んでいたジャピー氏でしたが、再び日本に訪れることはありませんでした。
日本では1937年7月から日中戦争が勃発し、4年後には大東亜戦争が、
一方、ヨーロッパでも1939年にナチスのポーランド侵攻から第二次世界大戦が始まり、日本に来る機会をなくしてしまったからでした。
ジャピー氏は、戦後は、タヒチに住み、自分の飛行機で傷病送や遭難した船の捜索、救助に力を尽くすと同時に秘境の島々の交通開発を行うための滑走路をつくり、航路の開拓につとめ、1974(昭和49)年10月10日に70歳で亡くなりました。
【秋ごとに、背振は朱に 染みいてで 君はおもはむ その雄心を】
これは、脊振出身の歌人・中島哀浪がジャピー氏を偲び詠った歌です。
背振の人たちは事故から30年後の昭和41年5月に事故現場に記念碑を建てました。
事故機の垂直尾翼の一部が現在、神埼市の脊振ふれあい館や東京・新橋の航空会館に展示されています。
第一次世界大戦後から第二次世界大戦勃発の、ほんのわずかな間に花開いた大飛行時代。
そんな時代に、日本に偏見を持っていた1人の外国人が日本で遭難し助けられ、村人や多くの日本人の美しい真心や高い文化を知りました。
「・・・然(しか)し私は残念ではあるが脊振山遭難は私にとって却って一つの幸いともなった事を喜んでいます。
なぜなら若(も)し私が、あの時一挙に東京に着陸、パリ東京間の快速飛行に成功していたとしたら私自身の成功に対する満足は得られたかも知れませんが、
その代わり私は日本の方々が如何(いか)に親切であり善良であるかを知る事が出来ず、現在のように日本の方々の温かい心に包まれている幸福を味わう事が出来なかったであろうからです。
私は近くフランスへ帰ります。日本の方々の優しい心を私の近親、同胞の間に伝えるのが私の唯一と云ってもよいフランスへ持ち帰るお土産である事は何という幸福な事でしょう・・・」
福岡を離れる際、福岡日日新聞の記者へのコメントより
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参考資料・サイト
『飛べ!赤い翼 』
こんどうちあき・作 小峰書店・刊
風の吹く先ー晩秋の赤い翼ー
http://blog.goo.ne.jp/sat-kamikaze
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