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ひとり、の渦に呑まれる

本作において、映画『Aftersun』と『正欲』の一部ネタバレと思われる箇所について触れております。未鑑賞かつこれから見る予定の方で、映画の内容を見たくない場合、そっと画面を閉じてください。

 手を奥へできる限り伸ばすと、ヒヤリとした冷風に突き当たる。使い始めてから早15年が過ぎていて、とっくに標準的な耐年数は超えているのに、いまだに微かな呼吸音を立てながら室内の果物や野菜、私が作った料理などを冷やし続けている、健気なやつ。日常的に、私が生きていくために、そっと息を吐き出している。

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 相変わらず、少し前から朝方の日が昇らない時間帯に目を覚ましてしまう。真っ暗闇の中で突然夢から放たれて、なぜかわからないけれど、再び眠ろうとしても途端に瞼が軽やかにパチパチと振動を始める。もう起きろ、という欲動に抗えなくて、結局布団から足を出して床に降り立つ。

 頭が完全に覚醒し切っていなくて、ソファに一人佇み、何をするともなくぼーっとしていた。少ししてからハッと再び現実に戻ってくるようにしてリビングの窓を開けると、冷気が部屋の中に傾れ込んできた。しばらくして、朝日が彼方から上がる。秋から冬へ移り変わる時の空は、一年で一番美しく、また涙腺がゆるゆると緩んでしまう。

 いまだに私のベランダには、初夏に植えたトマトの苗が枯れずに残っていて、しかも奇跡的に実までつけているんだ。

 果てしない生命力の奥底を覗き見た気がした。この寒さの中でも、日に日に少しずつ大きくなり、そしてほんのりオレンジ色に染まっている。そのトマトの実と朝焼けの空がリンクして、目を転じると、じっと動かない赤とんぼが止まっている姿を目にした。眠りが浅いことに悩んでいたけれど、これはもしかしたら三文分、得をしているのだろうか。

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 ここしばらく文章を書きたい、という思いが燻っていたのに結局書かないまま終わっていて、ただただ打ってもいないのに打ち疲れたジョーのように打ちひしがれていた。それでも何かを吸収したいという熱は止まることがなく、何かを補うかのように、それからこのままではいけないという焦りと共に、映画とか本とかとにかく手に取れるあらゆるものを目の奥にしまい込んでいた。最近は、韓国ドラマの沼に半ば片足を突っ込んでいる。

 近頃、なぜか「孤独」という言葉が目につく。コロナ禍で、少なくない人たちが命を落としてしまった。悲しみに飲み込まれそうになる。私はここ数週間、誰かしらとずっと会っていた。会社でも同僚から話しかけられたら朗らかに話をするし、客先でも講師として話をして相手からの質問に丁寧にお応えする。週末になったら友人の結婚式やら、会社の人とテニスをしたり、それからキャンプをしたり。

 日々がこれでもかというくらい充実している、
と自分に言い聞かせていた。

 それでも、ふとした瞬間に水道の蛇口からポタリ、ポタリと落ちる瞬間がある。

 先週行った軽井沢近くのキャンプ場は、兎にも角にもとんでもなく寒かった。ついこの間までの気温はどこへ行ってしまったのか。ここ数年における季節の折々は礼儀がなっていない、けしからん、と思わず悪態をつきたくなる。木枯らしなんてものじゃない。長野と群馬の狭間において、すでに白い粉が舞っていた。息が白く、もしかしたら凍りついてしまうのではないかとさえ思ってしまう。

 寒さの中で、うまく点火しないガスバーナーを横目にして、なんとかこうにか薪に火をつける。

 キャンプに一緒に行った友人のお腹の中には新しい命が宿っている。体を冷やさないように、と注意を傾ける。

 私たちは決して抗うことのできない自然と共に生きている。そして、時に自然は私たちに何かを悟らせるかのように刃を向ける。

 私の周りの友人は、少しずつ結婚していくから、こうして集まるのも多分、数えるくらい、もしかしたら、これが、最後かもしれない、と思うと鼻の奥がツンとする。

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 キャンプはいろいろトラブルがあったけれど、とても楽しいものだった。楽しい思い出がぎゅっと袋の中に閉じ込められているのに、空気が抜けていくように風船が縮んでいく。抗い難く、逃れることができない。私が愛しているものはなんなのだろう、愛したい、と思うものはなんなのだろう。

 矢も盾も堪らず、私は会社をいつもより早く出て、電車に乗る。向かった先は、雑踏に溢れる街だった。そして、かねてよりとても、とても楽しみにしていた映画を見に行った。平日の午後にも関わらず、満員御礼。中には会社員と思しき人もいて、自分のことを差し置いて大丈夫だろうか、とちょっと心配になってしまった。

 わかっていた。原作をすでに読んだ後だったから。全体の筋はなんとなく。この物語の行き着く先が、決して幸せな結末ではないということも。それでも、衝動に掻き立てられていた。絶対に、私はこれを見なくてはいけないという、義務感に似た感情に。

 結果、『正欲』を最後まで見て、主人公たちがたどる人生の末路に、息をすることができなくなってしまう。みんな、何か呪文のように口にする多様性、だいばーしてぃーという言葉の皮肉な意味を。それで救われる人もいるけれど、それによって逆に自分の居場所を失ってしまう人もいるということも。一筋縄ではいかないこの世界の中で、一筋の光明を見つけようとしている存在があるということを。Vaundyの曲が最後流れた時に、妙に自分の中の鼓動がしん、と静まったような心持ちがした。

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 娘と、父親。一筋縄ではいかない関係性。陽が登り、そして沈む前の話だった。プールのそばで、楽しそうに今日の計画についてどうする? どうする? と額を突き合わせる二人。彼らの日常は、確かに満ち足りていた──ように見えた。

 劇中では理由が明かされなかったが、二人はいつでも会える関係性ではないらしい。娘であるソフィは、かつて自分自身が撮影したホームビデオをもとに、父親とトルコで過ごした日々を振り返る。『aftersun』という映画ほど、観客の想像力に委ねる作品はないように思う。劇中で時折ちらつくフラッシュバックの一コマ。それは、時折父親の不安そうな姿を浮かび上がらせる。青く灯る薄っぺらな影と共に。

 作品の中では、まるで俳優同士が本当の家族であるかのような自然な装いのまま展開がされる。特にこれといって劇的な展開なんてないはずなのに、その後にそれぞれ二人の身に何が起こるかを想起させる。娘のソフィアはまだ11歳で、彼女の瞳に映る全てのものが新鮮だった。そして、彼女は聡明だったので、父親の気を引きながらも、何かをうっすらと感じていた。

 真っ暗な海の底。水は、人の生命線をつなぐものであるはずなのに、コポコポと流れる自分の血の流れを感じると、時々うっすらと怖くなる。喜劇をいつだって自分は求めているはずなのに、心の奥底では悲劇を渇望している。温く、足元が定まらない砂の上を、月の光がか細く差す場所でゆっくりと歩いている。

「でも、行き着く場所は誰にもわからない」

と、父親は娘に優しく、話しかけた。彼女は父親の目を見つめ、その真意を探ろうとすべく、瞳を泳がせる。溺れないように。

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 どちらも、私の頭の中と心の奥底に残ったのは、扉が閉まる瞬間だった。

 音はしたのだろうか。

 ──確かバタンという音が聞こえた気がする。

 何かを唐突に拒絶する音。

 それが果たして彼らの心模様を表していたものかはわからない。水の中で必死にもがく彼らの、彼らなりの、自分自身への最大の抵抗だったかのように。泳げないながらも、必死に泳ぐ人の姿。どこで、彼らは泳ぐことを、抵抗することを諦めたのだろうか。

 目当てのものを奥へ置き去りにし、冷えた手をそっと外に出してから私はバタンと勢いよく冷蔵庫の扉を閉めた。……これで大丈夫だ。もう買ってから随分月日の経過した冷蔵庫を、ついに買い替える決心がついた。ここ1年くらい、冷蔵庫は年相応にバグをきたし、中のものを引っ張り出したらカチンコチンに凍ってしまっていた。お世話になりました、ありがとうございました。

 私は新しい家の住人を待ち侘びて、そして震える手でキーボードを打ち続けている。寒さでかじかんだ左手を時々さすりながら。

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