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#7. クリィムソーダの記憶(A面)

【短編小説】
このお話は、全部で9話ある中の八つ目の物語です。

◆前回の物語

ホットコーヒー

 鈴木がいなくなった後、池澤と私は頻繁に連絡を取り合うようになった。まるで、彼のいなくなった傷を舐め合うかのように。そしてあるとき、そのまま自然な流れの中で池澤から告白をされ、断る理由も見つからなかったので付き合うようになった。

 気がつけば、池澤と付き合い始めてから2年ほどの月日が流れていた。

*

 扉を開くと、カランカランと乾いた音がする。中からは、コーヒーの香ばしい匂い。池澤と私は、大学時代に映画サークルの溜まり場となっていた喫茶店を訪れていた。この日は大切な話があるからと、事前に池澤からの連絡があったのだ。扉を開くと昔とは違う可愛らしい雰囲気の女の子が対応してくれた。彼女は私たちを喫茶店の一番端にあるテーブル席へと誘った。テーブルの上には、昔と同じように家の形をしたキャンドルライトが置かれている。

 喫茶店を訪れたのは、夏の暑い日のことだった。店員が再び水とメニューを置きにテーブルへやってくると池澤はぴっと人差し指を立てた。

「僕、ホットコーヒーひとつ」

 こんな暑い日にホットを頼むのかと訝しげな目で見たら、「いいからいいから」といった様子で池澤はうんうんと頷いた。一体なんの頷きだろう。

「———私はクリームソーダでお願いします」

 可愛らしい顔の店員は「かしこまりました」と言ってテーブルに置こうとしたメニューを脇に抱えた。

 数分ほど経って、店員が湯気がゆらゆらと立ち上るコーヒーを持ってくる。案の定というべきか、池澤は玉のような汗を額から流しながら「あち、あち」と言って、息を吹きかけてホットコーヒーを飲んでいる。こんなに暑い日にわざわざそんな熱い飲み物頼むことないのに、と私は半ば呆れた気持ちで池澤がコーヒーを飲む姿を眺めていた。

「あいつな、俺と一緒にここへくる時なぜかいつもホットコーヒー頼むんだよ。季節に関係なくな」

 池澤はどこか淋しそうな顔をしてぽつりと呟く。

「私と一緒にいる時は、いつもクリームソーダ注文してたよ」

 その後しんみりした空気を打ち消すかのように、なんてことないひととおりの近況をお互い報告しあった。不意に突然お互いの話の切れ目で、おもむろに池澤はいかにも真面目という風に顔が変化した。それからゆっくりと、厳かに言葉を発する。

「咲良、結婚しよう」

 池澤はポケットから小さな箱を取り出して、静かにテーブルに置く。パコンという音を立てて、中から鈍く光る指輪が現れた。

 そういえば、あいつは私のことを一度も名前で呼んでくれなかったな。そんなことを思いながら、池澤に対してどうやって答えようと頭の中の考えを逡巡させた。私と仲の良い人達は私のことを下の名前で呼んでいたのに、あいつはいつでも頑なに私のことを苗字で呼んでいた。

 数秒後には自分でも驚くほどに、「はい、よろしくお願いします」という言葉がするりとこぼれ落ちた。

 その言葉を聞いた直後、池澤は一瞬驚きの表情になった後に、すぐに喜色満面といった表情になった。その端正な顔をクシャッとさせて、全身から幸せが滲み出ていることがわかるようなとびきりの笑顔だった。

 その後も池澤は「あち、あち」と言いながらコーヒーを飲んでいた。その姿があまりにもかわいそうだったので、私が飲んでいたクリームソーダを彼の前にスライドさせて2つストローがあるうちの1つを彼に向けて差し出す。

「隼人、良かったら私のクリームソーダ飲んで。そんなに汗がダラダラ流れている状態でこの後デートしたくないし」

 翡翠色のソーダ水の上に乗っているアイスクリームは、半分以上溶けている。着色料で赤く染められたさくらんぼが、ぷかぷかと浮いていた。

 そういえば、あいつはこのさくらんぼを自分の中にある情熱だと表現していた。果たしてその情熱の正体はいったい何だったのだろうか。いつか映画監督になりたいという夢だろうか。それとも自分が何者なのかを探すことだろうか。あるいは———。

「ありがとう。それではせっかくなので、少しもらおうかな」

 そう言って池澤はグラスの中に差してあるもう1つのストローを口に加えた。緑色の液体がスルスルと流れていく。私はどこか自分の中にあるフワフワした気持ちを消し去りたくて、喫茶店の窓から外を眺めた。

 どこからか、シャワシャワと蝉の鳴き声が聞こえた。

<#8へ続く>

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