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クリィムソーダの記憶 総集編(A面)

【短編】全14,708字の小説となります。

0. 大切な日のこと

 私は今このとき、誰が見てもわかるくらい猛烈に緊張していた。

 生きている中で一度しか迎えないであろう、大切な日。人生における一大イベント。唯一、主役として輝ける瞬間。式にはありがたいことに、たくさんの人たちが私たちを祝福しに駆けつけてくれた。

 式は至って滞りなく順調に進行していく。ドラマで見るような、花嫁を奪いにやってきたという招かれざる客も現れる気配がない。

 ウエディングケーキに入刀する段になって、クリームに包まれたスポンジをナイフでスッと切る。私が、今後一生かけて添い遂げるであろう男性と共に。思いの外、柔らかくて拍子抜けした。何か思う暇さえなかった。

 自分の中の感情が、一刀両断にされた感じがある。私の頭の片隅にあった淡い気持ちが、だんだん泡となって消えていく。司会役の綺麗な女性が「新郎新婦の初めての共同作業です」と言うと、会場にいる人たちがパチパチと拍手をした。何かが、私の中でプチプチと弾けてすり潰されていく。

*

 最後、両親への感謝を伝える時間がやってきた。

 ありったけの思いを綴った手紙を読み終わった後、思わずないまぜになった感情が胸の奥から迫り上がってくる。涙がボロボロと溢れて、あっという間に手紙は濡れてクチャクチャになった。その様子を見た親戚や私の友人は、もらい泣きをしたのかハンカチを目元に当てている。

 でも今この瞬間、自分が涙を流している理由。

 それは両親への感謝と、彼らから旅立って自立するという意味での嬉しさと悲しさだけではなく、それ以外の意味も含まれていることを私だけがはっきりと頭の中で理解していた。


1. アイスクリン

 鈴木と私は、講義が終わると二人並んで教室を出た。外に出ると、暑さのせいで少し歩いただけでも汗がじっとりと流れ落ちてくる。気がつけばBGM と化した蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 もはや常連となりつつある喫茶店の入り口を開くと、おしゃれな蝶ネクタイをつけた女性が早速出迎えてくれた。「いらっしゃいませ」と可愛らしい表情で私たちに向かって微笑む。そのまま彼女はそつない様子で、一番端にあるテーブル席に私たちを誘導する。テーブルの上には、家の形をしたキャンドルライトが置かれている。

 鈴木と私はメニューを見ずに、先程出迎えてくれた女性に対していつもの飲み物を注文する。5分ほどして注文の品が運ばれてくる。

「地球の裏側って、どんな感じなのかな?」

 しばらくしてから、なんとなく私は鈴木に質問をした。鈴木は少し考える素振りを見せて、眼鏡の真ん中の部分を親指と人差し指でくいと上にあげる。本人はクールさを装っているつもりだろうが、全くもっていまいち。

「ん、それはきっとこのクリィムソーダみたいなもんではなかろうか。」

「は、どういうこと?」

「つまりさ、翡翠色のソーダ水とアイスクリンという奇跡的で絶妙なバランスで成り立っているということさ。とどのつまり」

 鈴木は、いかにも大真面目という表情で顔を近づけてくる。古典的な丸めがね、切り揃えられた真っ直ぐな前髪、少しよれた黄色のポロシャツ。まるでのび太くんである。あ、鼻の穴から少しだけ鼻毛が伸びているのを発見してしまった。これでは百年の恋も冷めてしまうだろう。

「全くもって、支離滅裂すぎて理解できない。鈴木にまともな答えを求めても無駄だね」

 私は鈴木を一瞥した。鈴木は私の言葉を聞いても一切へこたれる様子はなく、目を輝かせてクリームソーダに刺さっているストローからソーダの部分だけをずずずと吸い上げる。

「もう一つストロー刺さっているみたいだけど、どうかな?」

 私は鈴木の言葉を聞いて、思わず顔の前に右腕を曲げて「ひっ」と小さく声を漏らした。

「なにそれ、意味わかんない」私は理解できないという様子がうまく伝わるように左右に首をゆらゆら振った。

———昔から鈴木は飄々としているやつだった。

 同じ映画サークルに所属していたことが、出会ったきっかけ。最初鈴木を見た時、ダサいジャージと寝癖の跳ねた髪型を見て、しばらく映画サークルで顔を合わせても私からは積極的に話しかけることはしなかった。私は、自分にだらしない人間が大嫌いだ。

 ところがある時、たまたま同じ映画(リュックベンソン監督の『LEON』)が好きだったという理由でなんとなく打ち解けて、大学の授業の合間に時々暇つぶしがてら、ダラダラと一緒に時間を過ごすようになった。

 冴えない鈴木は、友達以上恋人未満というやつで、残念ながら私としては恋愛対象外だったけれど、不思議と一緒にいて安心するやつだった。恋人としてはいまいちだけど、結婚相手としては最適な人物かもしれない。そんなことを勝手に思っていた時期も、ある。

 それと鈴木はどこか人を拍子抜けさせるような、そんな程よい緩さを持った男子だった。例えばサークル内でメンバー内における議論が白熱してきたときにあわや喧嘩かとなるとすかさずヒョイ、と間に入ってうまくことを収めてしまう。吹っ掛けた側はどこか狐につままれたような顔になる。なんとも不思議な光景だった。

 それと、もうひとつ特筆すべき点がある。私の機嫌が悪いようであれば、いち早くそれを察して、他愛もない言葉でさりげなくその場の空気を滑らかにしてしまう。これは彼の才能といっても良いかもしれない。その部分だけ、私は彼のことを尊敬していた。

「やっぱ、マチルダのあの子供ながらにして妖艶な感じ堪らんよなあ」

 いかにも夢見がちな様子で鈴木は軽く上を見上げる。

「なに言ってんの、あの映画はジャン・レノに決まってるじゃないロリコン。ハードボイルドな割にちょっと抜けている感じがいいんじゃない」

「なんだかんだ言って水原もミーハーだよな……」

「余計なお世話。あんたがつけてるメガネ、どこかジャン・レノ意識しているみたいだけど、残念ながら感覚ずれてるわよ。全然似合ってない」

「ノンノン、ノンノン」

 鈴木が人差し指を立てて、左右に振る。

「俺がつけているメガネはジャン・レノではなくで、ジョン・レノンを意識しているんだよ。ちょっと惜しいね。水原はイマジンが足りないね、イマジンが」

 何がイマジンだ、カタカナではなく想像力というべきだろ、そこは。私は半ば呆れた様子で言葉を返す。

「あんた、ほんっとに阿呆」

「え?」

「あんたは本物の阿呆」

「2回言わなくてもいいじゃないか。俺たちなんだかんだ言って似たもの同士なんだから、もう少し優しくしてよん」

 鈴木がいい歳をして拗ねる素振りを見せる。

「それと鈴木。いっつも気になってたんだけど、あんたどうしていつもアイスクリーム最後まで食べずに置いとくのよ。もうだんだん溶けてきてるじゃない」

「水原は男のロマンがわかってないねえ」と言って、はぁーと鈴木はため息をついた。

「どういうこと」

「この少し解けてまろやかになったアイスリンを食べるのがまた乙なんじゃないか。見てよ、この可愛らしい姿を。あ、ちなみにこの間ね、アイスクリンの上にのりたまふりかけかけて食べてみたんだけどこれがまた———」

「もったいないから私がもらったるわ!」

 私はバニラアイスの半分をスプーンで掬って口に入れた。

「おーぅ、人の楽しみを奪うなんてなんていけずなやつなんだ!」

 その瞬間、鈴木の顔がいかにも大根役者のように大袈裟な感じで悲しい表情を作る。私はその顔を見て、思わず胸の中でニヒヒと笑った。

 ……とまあこんな感じで私たちは、毒にも薬にもならない話を、いつまでもダラダラとするのだった。


2. のび太ノート

 校舎の雰囲気がとても懐かしい。ちらほら学生と思われる人たちが私の横を通り過ぎていく。中にはカップルと思われる男女もいてどこか楽しそうな雰囲気だった。ふと当時の記憶が蘇ってきて、胸の奥がほんの少しツンとなる。

*

 ある時期、鈴木と私は同じ講義を受講していた。

 私自身はフランス文学を専攻していて、鈴木は国文学を専攻していた。どちらも文学系なので、時には似たような講義のコマを取らなければいけないこともある。なんとはなしに、隣に座って一緒に講義を聞いていた。確か、哲学関連の講義だった気がする。内容は正直、全く覚えていない。

 鈴木は、意外にも字が達筆だった。講義の内容をそれはそれは規則正しい文字で書き上げる。授業を欠席した日があると、他のクラスメイトからも鈴木のノートは重宝された。陰では「のび太ノート」と揶揄されていた。その後、映画サークルでも「のび太ノート」は見やすくてわかりやすいと評判となり、ずっと部室の神棚に捧げられているという。

 そういえば何をやらせてもダメなのび太も、射撃の腕だけは超一流だったっけ。きっと同じような理屈だろう。

「鈴木ってズボラな性格の割に、字だけは綺麗よね」

「『だけは』という言葉は余計だよ。字だけではなくて、僕は心『も』綺麗だよ。言葉を自分の手で綴る瞬間って、楽しいだろう?」

 鈴木は「も」という言葉だけを語気強めて主張した。

「あんた、変態」

 鈴木は得意げに眼鏡の真ん中の部分を上にあげる。その仕草でさえ、なんだかちょっぴり腹立たしい。褒めてなんだか損した気分だ。

「そういえば鈴木はさ、将来どんな職に就きたいとか考えてるわけ?」

 そこで鈴木は嬉々とした顔に変わる。

「もちのロンよ。チミはなんのために映画サークルに所属しているわけ?将来目指すは映画監督よ。自分で映画作って、そしてあわよくば出演女優とねんごろになったりして。薔薇色の人生だなあ」

 最後の部分は、正直どうでも良かったのでスルーした。

「え、それなのになんで鈴木は国文学を選んだの?」

「それは、夏目先生の影響ですな。師匠の作品は全部覚えているよ。ちなみに水原に質問を返すけど、なんでフランス文学を専攻したのさ?」

 改めて質問されて私は返答に窮してしまった。

「なんでって言われると……。高校生の時教師に『レ・ミゼラブル』っていう本をお薦めされて。それで試しに読んだら感動して、大学でもきちんと学びたいって思ったからかな」

 本当を言うと、フランスの世界観に憧れがあったからだった。いつか、エッフェル塔を眺めながらシャンゼリゼ通りを歩いて、おしゃれなお店でご飯を食べたい。そのためにフランス語とかその文化を勉強したいという安易な気持ちで選んだのだった。でもなんとなくそのことを鈴木に言うと馬鹿にされそうだったのであえて口にはしなかった。

「ふーん……」という鈴木の表情は、どこか疑わしげに見える。

「ちなみに、鈴木は夏目漱石の中でもどれが一番好きなのさ」

 鈴木の疑いの目を逸らすために私は再び話題を振った。

「それはやっぱり『吾輩は猫である』ですかなあ。初めて読んだときの衝撃は忘れられないね。それであっという間に私の心の師匠と仰ぐようになったわけなのですよ。水原くんは読んだことあるのかな?」

「うーん、確か高校の課題かなんかで読んだことあった気がする」

 突然閃いたように、鈴木は口を開いた。

「吾輩は鈴木である」

「馬鹿」

「うん、苦しゅうない」

 鈴木との思い出は今振り返ってもくだらないやり取りばかりだった。苦しいことがあると、その度にその時の出来事を思い出す。そうすると、不思議なことにふわりと心が軽くなるのだった。


3. 安定剤

 大学を卒業してから、私は小さなIT会社の事務として就職し、鈴木はそれなりに大きな規模の映像プロダクション会社に勤めることになった。

 最初こそこまめに連絡を取り合っていたものの、お互い仕事に忙殺されるようになり、次第にLINEや電話をする機会も減っていった。それでもなぜかある時を境にして、私たちは定期的に手紙を交換し合うようになる。鈴木はこのご時世で今どき珍しい、アナログな人間だ。

*

 大学を卒業してから、鈴木と一度だけ会った。

 確か私が社会人になって2年目の頃だった。その当時付き合っていた彼氏に振られてしまって、どうしようもなく凹んでいたとき。胸の真ん中が切り取られたような苦しい気分になって、誰でもいいから話を聞いて欲しかった。こんな経験は初めてだった。数日間、まともにご飯も喉に通らない。もう寂しさで胸がはち切れそうになって、迷った末に鈴木と連絡をとった。正直魔がさしたということになる。

 事前にLINEで指定された、少し小洒落た雰囲気のイタリアンレストランへと向かう。お店にはシャンソンが流れていた。

「鈴木、久しぶり。元気してた?」

「それはこちらのセリフだよん。水原、なんかもうすっかり社会人って感じだね。心なしか大人っぽく見えるわ。てか少し痩せた気がするけど、気のせい?ちゃんと食べてる?おじさん、心配だよぅ」

 相変わらずの軽いノリ。この気を遣わないやりとりがなんとも懐かしかった。そしてたぶん鈴木は今日呼び出した理由をなんとなく察しているところもあるのかもしれない。

「はいはい、お世辞はいいから。早くお店に入ろ」

 久しぶりに会った鈴木は、大学当時ボサボサだった頭が綺麗に切り分けられていて、どこか爽やかな雰囲気を醸し出していた。ビシッと着こなしたスーツが強く印象に残った。幾分か、鈴木自身も前より痩せた気がする。

 中身はというと、大学の頃と比べるとたいして変わっていなかったがそのギャップがなんだか新鮮だったし、正直いうとほんの少しドキッともした。

 目の前に並べられていくピザやパスタ、赤ワイン。鈴木が選んだお店は雰囲気も味も全てが洗練されていて、私がこれまで行ったどのお店よりも落ち着いた。洗練さとリラックスできる空間は両立しないと思っていたけれど、これは新たな発見だった。

「いやーそれにしても俺たちも随分歳をとったねえ。最近急激に体力の衰えを感じるようになっちゃって、いかんいかん」

「『たち』って私も一緒にしないでよ。私は十分まだ若い気でいるんだから。もう年取ったって思った時点で負けよ、負け。ちょうど少し前に1年目の子が配属されてきたんだけど、彼女たちと比べても私はまだ全然イケてる、って思いながら仕事してるし」

「ははは、水原は相変わらずだなあ。その逞しさ、俺にもちょっと分けて欲しいわ」

 しばらく二人してくだらない話をして、近況を語り合う場面になった。話の流れから先日まで付き合っていた彼氏と別れたことを言わざるを得ず、思わず付き合ってから別れるまでの経緯を話してしまった。

「……ということなのよ。信じられる?その男、大久保って言うんだけど、今思い出しても本当にムカつくやつでさ。何度蹴飛ばしてやりたくなったか。それでも今もふとした拍子に思い出しちゃうんだよね」

 酒の勢いも手伝って、私は思わず涙がこぼれ落ちそうになった。

「———水原」

 涙が落ちてこないように少し上を向いた。天井にはセンスの良い灯が点々と並んでいる。店内には「オーシャンゼリゼー」と歌うハスキーがかった声が聞こえてきた。

「何よ?」

「もしさ、もしだよ?———もし俺たちがこのまま二人とも5年後くらいに独身貴族だったらさ、そのぅ、俺のこともらってくれよ」

 最後はどこか冗談っぽい口調で鈴木は言った。私は正直、鈴木の言葉をどこか胡散臭さをもって聞いていた。こいつは基本適当なことしか言わないから当てにならないと心の中の自分が言っている。少し顔が熱ったので、慌てて目の前にある赤ワインをぐいっと一気に飲む。

「やだ、何言ってるの鈴木。冗談は顔だけにしてよね」

 私は照れていることがわからないようにできるだけさりげなくぶっきらぼうに聞こえるような口調で言葉を口にした。———一瞬。ほんの一瞬かもしれないけど、その時鈴木の表情が悲しげになったような気がした。

「なはは、もちろんですよ、水原先生。まあお互い、上を向いて歩いていきましょうや」 

 その後私は少し居た堪れない気持ちになって席を外した。戻ってくると、鈴木が錠剤を口にしているのが遠目に見えてしまった。そのことについて触れるべきか迷ったものの、結局何も言わずにいた。

 私は知らなかった。少しずつ鈴木が心のバランスを失い始めていることに。

*

 その日は結局何事もなく解散した。私は、鈴木に対して一抹の淡い思いを抱いて。

 夜はたくさんの人たちで溢れかえっていた。その熱気に思わずむせ返りそうになる。駅のホームまで続く道には酔っ払いと思われるおじさんが一定数いて、誰彼構わず声をかけていた。

 今日、鈴木が隣にいてくれてよかった。寂しさで胸がぎゅっと締め付けられて、自分がやけを起こしてしまう可能性もあったかもしれない。鈴木は不思議と私の心を安心させてくれたし、今日一緒に過ごしただけでもだいぶ心の隙間を埋められた。こうやってみんな、知らず知らずのうちに誰かに依存しながら生きているのかもしれない。

 人は一人じゃ生きていけない、か弱い生き物だ。

 最後、ずっと鈴木は坂本九の『上を向いて歩こう』を歌っていた。こいつはどうせきっと私のこと仲のいい友達くらいにしか思っていないだろうから、悩むだけ損。だから結局その日淡く芽生えた鈴木への思いはその日でなかったことにした。

 思えばこの時から鈴木と半月に1度のペースで手紙を交換するようになった。どういう経緯があったのか、正直後半は記憶があやふやなので覚えていない。


4. 拝啓、夏目先生

 卒業してから4年が経過した。蝉の声が次第に弱々しくなり、秋が近づきつつあるタイミングで、池澤隼人となんてことない道端で出くわした。池澤は、大学の頃に私が所属していた映画サークルで副代表を務めていた人物だ。

 お互い軽く近況を話し終えた後、池澤が思い出したような感じでふっと言葉を漏らした。池澤は鈴木とは違って当時から服や語りのセンスが素晴らしく、映画サークル内でも彼目当てに入部した子が何人かいた。

「そういえば、水原知ってる?」

 どこか神妙な面持ちで池澤が口を開く。

「なにを?」

「春生、失踪したってよ。」

「え?」

 春夫とは鈴木のことだ。鈴木春生。春に生まれたから春生という名前を親がつけたらしい。なんて安易なんだと、ことあるごとに鈴木は私に対して愚痴を言っていた。

 どうやら鈴木が就職した映像プロダクションは、私が想像できないくらいブラック企業だったらしい。それでも例によって鈴木はあの飄々とした感じで、過重労働なんて意にも介さない様子で働き続けていたそうだ。

———ところが、ある時会社に来なくなってしまった。

 池澤がサークルの同窓会を開こうと画策して、鈴木の家に電話をかけた時お母さんからその事実を教えられたそうだ。そもそも池澤と鈴木が互いの家に連絡するほど仲が良いとは知らなかった。

「春生とは割と地元が近くてさ。折りあるごとによく遊びに行っていたんだよ」

 ふーん。そういえば、たまに鈴木が池澤と一緒に飲んでオールしたとかいう話をしてたっけな。

 気が付けば鈴木と秘かに続いていた手紙の交換は2か月前に私が彼へ手紙を送ったっきり返ってきていなかった。最初の1か月くらいは何かあったのではないかと気が気ではなかったのだが、私自身ちょうど仕事が忙しくなっていていつのまにか手紙のことがすっかり頭の中から消えていた。

 曲がりなりにも、鈴木と結構仲が良いと思っていた私は、その事実を真っ先に知ることができなかったことに地味にショックを受けた。そんなにメンタルやばかったのなら話してくれればよかったのに。一体、鈴木はどこに行ってしまったんだろう。

*

 その夜、私は居ても立っても居られなくなって鈴木にLINEをした。

『鈴木、大丈夫?』

『今日、たまたま池澤とばったり出くわしてさ。鈴木が失踪したって聞いたんだけど、本当?』

 数時間おきに鈴木宛に送ったメッセージを確認する。その日は結局鈴木から返信は返ってこなかった。次の日の朝、ガバッと布団を跳ね除けてLINEを開くと既読マークがついている。何か不穏な影が私の脳裏をよぎった。

『ねえ、夏目先生』

『私、あなたがどこにいるのかだけでも知りたい。お願いだからスタンプでもなんでもいいから返事して』

 程なくして携帯がピコンとなった。急いで見てみると、どこか不遜な顔をした男の人のスタンプが一つだけ。どうやら顔の雰囲気から見るに夏目漱石をイラスト化したスタンプらしい。なんなんだこいつは、と私は呆れてその後何度も電話をしたし手紙も送ったけど、梨の礫(つぶて)で何の応答も返ってこなかった。

 それからも定期的に鈴木への連絡を試みた。でも、結局彼から再度連絡らしい連絡がくることはなかった。池澤に連絡をすると、

『便りがないのは良い便り』

『あいつのことだからそのうちひょっこり顔を出すさ』

と返信が返ってきた。ひょっこりひょうたん島のスタンプ付きで。私はなんとなく胸の中のざわめきが消えないまま、モヤモヤした日々をしばらく過ごすことになった。


5. イグアナの滝

 鈴木失踪事件からしばらくして、年の瀬が近づく師走の月に、たまたまテレビを点けたらお昼の情報番組がやっていた。

 可憐な服装を身につけた女性が、淡々とした様子でその日のニュースを喋っていく。途中、豪快な滝の写真がどアップで映された。邦人男性が誤ってアルゼンチンのイグアスの滝から落ちる事故が起こった、とアナウンサーが深刻そうな表情で述べている。身元はまだ分かっていないらしい。

 その時は、そのニュースのことは気にも留めていなかった。

 あ、そういえばお昼ご飯どうしよう。今冷蔵庫にあるものといえば卵くらいか。そうだ卵焼きでも作るか、と思い立つ。卵2個割って、ほんの少しの砂糖とだし醤油を入れる。グラスの中でシャカシャカとリズムよくかき混ぜた。均等に混ざり合ったと思ったタイミングで、温めていた卵焼き器の上に盛大に流し込む。ジュワッと黄身が固まり、美味しそうな湯気がゆらゆらと立ち上った。

*

 それから数日後、再びニュースを点けると、「イグアスの滝に落ちた邦人男性の身元が判明しました」とまたもや先日と同じ見目麗しい様子のアナウンサーが喋っている。テロップに映った名前を見てびっくりした。会社員男性 鈴木春生(27)。

「カイシャインダンセイのスズキハルオさん、ニジュウナナサイ。スズキさんは会社で長期休暇取得後、3ヶ月程度旅行をしていました。その途中のアルゼンチンへ立ち寄った際、写真を撮ろうと身を乗り出して誤って滝に転落した模様です。詳細については現地メディアから情報を取得している最中です」

 いやいや、同姓同名で年もたまたま同じということもあるじゃないか。あの鈴木が、地球の裏側にある滝に落ちた?一体なにが起きたらそんな地球の果てともつかない場所に、あいつが行くことになるのだ。とにかく、落ち着け私。

 急いで池澤に連絡を取る。

「ねえ、たまたま見ていた報道番組で、イグアナの滝に邦人男性が落ちたっていうニュースがやってたんだけど、あれは鈴木のことじゃないよね?」

「ああ」

 何やら池澤の声が深刻そうな響きを持って電話越しから聞こえてくる。

「あれ、春生のことらしい。今朝春生の母ちゃんから電話かかってきた」

 頭をガツンと横から殴られたような鈍い痛みがする。脳の奥から言葉にならないキン、とした音が聞こえる。どこか現実世界で起きたこととは思えない。今もこうして私の預かり知らぬところで誰かが大切な人を失い、苦しんでいるという現実。でも、それは私にとっての現実ではなかった。

 私はその瞬間我にかえり、かろうじて二つの音を発することができた。

「嘘」

「あいつと別れを告げる会は、近々執り行われる予定らしい。きっと水原にも連絡行くと思うよ」

 頭が真っ白で再びなにも考えられなくなる。あのニュースでやっていた鈴木春生(27)とは、本当にあの鈴木のことなのか?いつも飄々として、地球が転覆したとしても鈴木はきっとゴキブリのようにしぶとく生きるような気がしていた。鈴木が———?

「水原、春生とは仲良かったもんな。俺も今だに信じられないんだ。あいつがあんないなくなり方するなんてな。なんか突然のことすぎて、涙ひとつ溢れてこないんだ。本当に参ったよ。水原、変な気を起こすなよ」

———いや、変な気って、どんな気よ。わけがわからない。

「ちなみにな、水原。気が動転しているのはわかるけど、イグアナの滝じゃなくでイグアスの滝だか……」

 再度まで池澤が喋り終わる前にブツンと強制的に電話を切ってしまった。心臓の鼓動が、どくどくと鳴っている。信じられなかった。

 かつて鈴木と過ごした日々が俄かにフラッシュバックした。今も思い出すのはやつのふざけたような顔。そしてなぜかはわからないが、私が彼氏に振られて落ち込んでいた日に鈴木が発したあの言葉。

「もしさ、もしだよ?———もし俺たちがこのまま二人とも5年後くらいに独身貴族だったらさ、そのぅ、俺のこともらってくれよ」 

 あの日の鈴木の言葉が今、私の中に鋭い棘となって刺さっていた。ああ、この世界のどこを探しても本当に彼はいないのだろうか。例えばどこか水の中にブラックホールがあって。それは私が住んでいる場所とつながっていて。

 ある時ふとした拍子に、あの戯けた顔をした男が私の目の前にひょいと現れるのではないか。そんな一縷の希望にも似た糸を断ち切ることができない。どこでもドアだってなんだっていい。あいつが今住んでいる世界と、今私が住んでいる世界がつながっているのであれば。

 いつだったか、鈴木が喫茶店で注文したクリームソーダのことをふと思い出した。シュワシュワと底から揺れる炭酸の泡。アイスクリームを私が食べたら、彼は泣きそうな顔をしていたっけ。

*

 でも、そうか。この世界に、あいつはもうどこにもいないのか。


6. 砂漠

 あっという間にあいつと別れを告げる日がやってきた。

 鈴木との訣別の日、映画サークルのメンバーも含めてたくさんの人が参列していた。額縁の中に収められた鈴木の顔は、大学の時に毎日のように見ていた、どこかひょうきんな、それでいて優しい笑顔だった。

 なんだかんだ言って、彼は愛されキャラだった。そのどこか抜けたキャラクターが、なんとなく一緒にいる人たちを安心させたのだろう。そういえば一緒に歩いていると、ことあるごとに鈴木は誰かしらから声をかけられていたっけ。

 鈴木がもうこの世界にはいないという現実があまりにも遠い出来事のような感じがして、なかなか受け入れることができなかった。外に出てみると、ピンと張り詰めた空気が肌を刺す。これまで見たことのないような、雲ひとつない澄んだ青空だった。なんとなくその青空は、かつて鈴木が飲んでいたソーダ水の色を思わせた。

 まるで私の体から全ての水分が干上がってしまったかのように涙が一滴も出てこない自分自身に驚いていた。それから私はしばらく何も手がつかなかったが、不思議なことにゆるゆると日常は戻ってきた。たぶん誰かを思い出にするためにはそれ相応の時間が必要なのだ。


7. 地球の裏側より

 鈴木がこの世界からいなくなってから1ヶ月くらい経ったある日。私の家にひらりと一枚の絵葉書が舞い込んだ。ちょうどお正月が終わったくらいの頃合いである。

 誰からかと思って見てみると、なんと鈴木からだった。かつて講義を一緒に受けたときに見た時と同じ、流麗な字で書かれている。今でもサークルの部屋の神棚に飾ってあるのび太ノート。

 住所は英語、文面は日本語だ。裏は、豪快に流れ落ちるイグアスの滝の写真が載っていた。突然の知らせに頭が追いつかない。

To SAKURA MIZUHARA

やっほー。水原、元気にしていますか?

毎年恒例の年賀状、今年はなんと地球の果てからお送りしております。
聞いて驚くなよ、俺今アルゼンティンにいるのよ。仕事はね、実はしんどくなったから放り出して来ちゃった。社会人として失格だろうけど、そうでもしないと自分を見失っちゃいそうだと思ってね。これも将来映画監督になるための布石よ。

会社を強制終了して向かった先……なんと南米でっす!
昔から来てみたかったんだよね。そして俺は今どこにいるかというと、アルゼンティンにあるイグアナの滝というところにいます。もうね、ものすごい迫力ですよ。鬼気迫るって、きっとこういうことを言うんだろうな。水原にも見せてあげたい。もうね、何かいろんなことがちっぽけに思えてくるわけ。

そういえば、昔喫茶店で地球の裏側の話をしたこと覚えてる?
水原に地球の裏側がどんな感じか聞かれた時に、俺は適当にクリィムソーダだという話をしたんだけどさ、あれはあながち間違ってなかったよ。滝はソーダ水みたいな色をしているし、真っ青な空の上にポツンと浮かぶ雲はなんだかアイスクリンみたいだもんなあ。さくらんぼがちょっと難しいけど。まあそこは私の内なる情熱ってことにしてちょんまげ 笑

ちなみに明日も行ってみる予定です。この手紙が届いている頃には日本に戻ってる予定なので、その時久しぶりに会おう。

 そうか、本当に鈴木は地球の裏側にいたんだな、という実感がじわじわと出てきた。別れの日にはあまりにも現実味がなくて全くと言って良いほど悲しくなかったのに、手紙を読んだら胸がキュッと締め付けられるようになって一粒だけ涙がこぼれた。それにしても、滝の名前が間違っている。本当に阿呆を通り越して馬鹿なやつめ。

 どうにも朝から凍てつくような寒さだと思っていたら、空からしんしんと白い雪が降っていた。


8. ホットコーヒー

 鈴木がいなくなった後、池澤と私は頻繁に連絡を取り合うようになった。まるで、彼のいなくなった傷を舐め合うかのように。そしてあるとき、そのまま自然な流れの中で池澤から告白をされ、断る理由も見つからなかったので付き合うようになった。

 気がつけば、池澤と付き合い始めてから2年ほどの月日が流れていた。

*

 扉を開くと、カランカランと乾いた音がする。中からは、コーヒーの香ばしい匂い。池澤と私は、大学時代に映画サークルの溜まり場となっていた喫茶店を訪れていた。この日は大切な話があるからと、事前に池澤からの連絡があったのだ。扉を開くと昔とは違う可愛らしい雰囲気の女の子が対応してくれた。彼女は私たちを喫茶店の一番端にあるテーブル席へと誘った。テーブルの上には、昔と同じように家の形をしたキャンドルライトが置かれている。

 喫茶店を訪れたのは、夏の暑い日のことだった。店員が再び水とメニューを置きにテーブルへやってくると池澤はぴっと人差し指を立てた。

「僕、ホットコーヒーひとつ」

 こんな暑い日にホットを頼むのかと訝しげな目で見たら、「いいからいいから」といった様子で池澤はうんうんと頷いた。一体なんの頷きだろう。

「———私はクリームソーダでお願いします」

 可愛らしい顔の店員は「かしこまりました」と言ってテーブルに置こうとしたメニューを脇に抱えた。

 数分ほど経って、店員が湯気がゆらゆらと立ち上るコーヒーを持ってくる。案の定というべきか、池澤は玉のような汗を額から流しながら「あち、あち」と言って、息を吹きかけてホットコーヒーを飲んでいる。こんなに暑い日にわざわざそんな熱い飲み物頼むことないのに、と私は半ば呆れた気持ちで池澤がコーヒーを飲む姿を眺めていた。

「あいつな、俺と一緒にここへくる時なぜかいつもホットコーヒー頼むんだよ。季節に関係なくな」

 池澤はどこか淋しそうな顔をしてぽつりと呟く。

「私と一緒にいる時は、いつもクリームソーダ注文してたよ」

 その後しんみりした空気を打ち消すかのように、なんてことないひととおりの近況をお互い報告しあった。不意に突然お互いの話の切れ目で、おもむろに池澤はいかにも真面目という風に顔が変化した。それからゆっくりと、厳かに言葉を発する。

「咲良、結婚しよう」

 池澤はポケットから小さな箱を取り出して、静かにテーブルに置く。パコンという音を立てて、中から鈍く光る指輪が現れた。

 そういえば、あいつは私のことを一度も名前で呼んでくれなかったな。そんなことを思いながら、池澤に対してどうやって答えようと頭の中の考えを逡巡させた。私と仲の良い人達は私のことを下の名前で呼んでいたのに、あいつはいつでも頑なに私のことを苗字で呼んでいた。

 数秒後には自分でも驚くほどに、「はい、よろしくお願いします」という言葉がするりとこぼれ落ちた。

 その言葉を聞いた直後、池澤は一瞬驚きの表情になった後に、すぐに喜色満面といった表情になった。その端正な顔をクシャッとさせて、全身から幸せが滲み出ていることがわかるようなとびきりの笑顔だった。

 その後も池澤は「あち、あち」と言いながらコーヒーを飲んでいた。その姿があまりにもかわいそうだったので、私が飲んでいたクリームソーダを彼の前にスライドさせて2つストローがあるうちの1つを彼に向けて差し出す。

「隼人、良かったら私のクリームソーダ飲んで。そんなに汗がダラダラ流れている状態でこの後デートしたくないし」

 翡翠色のソーダ水の上に乗っているアイスクリームは、半分以上溶けている。着色料で赤く染められたさくらんぼが、ぷかぷかと浮いていた。

 そういえば、あいつはこのさくらんぼを自分の中にある情熱だと表現していた。果たしてその情熱の正体はいったい何だったのだろうか。いつか映画監督になりたいという夢だろうか。それとも自分が何者なのかを探すことだろうか。あるいは———。

「ありがとう。それではせっかくなので、少しもらおうかな」

 そう言って池澤はグラスの中に差してあるもう1つのストローを口に加えた。緑色の液体がスルスルと流れていく。私はどこか自分の中にあるフワフワした気持ちを消し去りたくて、喫茶店の窓から外を眺めた。

 どこからか、シャワシャワと蝉の鳴き声が聞こえた。


9. 追伸

 結婚式の日は、4月にした。池澤には結婚する際の条件として2つ提示したのだが、そのうちの1つが結婚式の日取りだった。

 4月は入学シーズンでなんとなく縁起がよさそうだったし、私が生まれた日も4月だったというのが理由で、ここは譲れないといって懇願したのだ。

 結婚式当日までは本当に大変だった。お互い過密な仕事スケジュールの合間を縫って打ち合わせを行って、ヘトヘトになりながらもなんとか当日を迎えることができた。この日を迎えるまでに何度喧嘩したかわからない。正直途中で投げ出そうと思ってしまった日もある。それでも無事に当日を迎えることができて、心の底からホッとした。

 結婚式当日の日は、親戚や映画サークル、中学生や高校生の時の同級生を合わせてだいたい30人くらいが集まってくれた。

 式自体は、Kiroroの『未来へ』など結婚式定番の曲が流れ、特にこれといったハプニングもなく滞りなく進行した。そして最後、両親に向けて感謝の言葉を伝える番となった。その時にかかっていた曲は、ジョン・レノンの『イマジン』。

 池澤はなんで『イマジン』なんだよ、と言って最初難色を示した。でも結婚の条件として提示したことによって、不承不承といった体で最後には了承してくれたのだった。

 両親に、これまで生まれてからこの日を迎えるまでに私を育ててくれてありがとう、という言葉をさまざまなエピソードを絡めて情感たっぷりに私は話をした。でも実は私自身は両親への感謝の気持ちではなくて、どちらかというと曲の方についつい集中してしまっていた。

 ありったけの思いを綴った手紙を読み終わった後、思わず感情が胸の奥から迫り上がった。涙がボロボロと溢れて、あっという間に手紙は濡れてクチャクチャになってしまう。その様子を見た親戚や私の友人は、もらい泣きをしたのかハンカチを目元に当てている。

 でも今この瞬間自分が涙を流している理由。

 それは両親への感謝と、彼らから旅立って自立するという意味での嬉しさと悲しさだけではなく、それ以外の意味も含まれていることを私だけがはっきりと頭の中で理解していた。

追伸)
俺、地球の裏側に来てようやく「ただ、今を生きる」ということの意味がわかった気がする。咲良には、日本に帰ったらきちんと伝えたい言葉があるんだ。その時は、頼むから真面目に聞いてくれよ。

あ、それと今日はなんだか月が綺麗に見えるよ。きっと満月かな。

(了)

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