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#6 救済に連なる愛を語る

 時々、グッと見えないものから無言の圧力を感じることがある。何に対してわたしは恐怖を感じているのかもわからない。頬を撫でる春の風は、なぜか刺すような寒さを伴っている。

 人は結局、他者との関係性の中で自分が生きるべき道を見つけるものなのかもしれない。それがたとえどんな形であるにせよ、自分としての確立された姿を保つために、相手の心に触れること。

 前へ進む道を断たれた時。悪いことだと分かっていても、楽な生き方に誘われそうな時。生きることに価値を見出せなくなりそうな時。深い暗闇から救い出してくれるのは、いったい誰だろう。貴方なのだろうか。

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同士少女よ、敵を撃て

 昨日、2022年の本屋大賞受賞作が発表された。逢坂冬馬氏の『同士少女よ、敵を撃て』。奇しくもつい3週間ほど前に読んだばかりで、その余韻が体の中に刻みつけられている。その受賞の発表を見た時には、心の内で「なるほどな」と納得感があった。

 今はただでさえ、ロシアとウクライナの間の戦いが日夜ニュースを賑わせているだけに、作品が脚光を浴びるのも道理である。それ以上に、私自身今年読んだ中で、心を動かされた作品の一つであることは間違いなかった。様々な思いや考えが濁流のごとく流れ、胸の奥がぐらぐら揺れている。

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原動力

もはや、生への渇望とも死の逃避とも異質の衝動が、彼女を突き動かしていた。

早川書房『同志少女よ、敵を撃て』p.38

 旧ソビエトとドイツの間に起きた戦のさなか、故郷と大切な人を突如として奪われた少女。彼女は一瞬にしてすべてを奪った「敵」へ復讐することに生きる原動力を見出す。

 旧ソビエトは「男女平等」であることを謳い文句にして、女性が戦争に参加することも厭わない。少女は、狙撃兵として過酷な戦場に送られていく。何だよ、それは。その大義名分は誰の心を救っているんだ?何かいちばん大切なものが捻じ曲げられて、歪んでいる。

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目的

 本作の凄さを感じる一つに、旧ソビエトの正義だけにスポットライトを当てるのではなく、多様な視点からその当時の人々の意識の歪みにも着目している点が挙げられる。絶望の淵に追いやられる人たち。彼らは皆口々に声を揃えて言う。やるしかなかった、生きるために。彼らはその中で、何か一つの救済を求めているように見えた。十字架を背負いながら。

 わたしがもしその時代に生きていたらどうなるのだろう。それどころか、今まさに行われているウクライナとロシアとの戦いに実際に身を投じる状況に陥ったら。身震いせずにはいられない。正気を保っていられるのだろうか。自分が自分でいられるよう、確固とした意志が必要だった。

 主人公であるセラフィマと、彼女を救った赤軍の女性兵士イリーナ。二人の関係性は、本来は「戦争」がなければ成り立たなかったものだろう。彼女たちはもともと生きる環境も考え方も違ったわけで、極限の状況に追いやられる中で、自分の中にある曇りなき意志の正体を探り合う。それはきっと、イリーナがセラフィマに対して差し伸べた救済の手。

 セラフィマはイリーナに出会ったことにより、自分が生きる目的はこれだというものが見つかったのだろうし、一方で教官であるイリーナ自身もセラフィマに手を差し伸べることによって、自分自身の生きる糧としていたのかもしれない。

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救済

 たとえば、自分の立場に置き換えて考えてみる。長く生きれば生きるほど、わたしが身を投じている場所には何か特定のものや誰かがすべて正しいという事実は存在しないように感じてしまう。

 この世にあるありとあらゆるものは、少しずつ少しずつ目に見えない形で歪んでいる。それは感知できるほど明らかな場合もあるし、空気のように実際には感じにくいものも存在している。

 「絶対にこれが正しい」、と言えるものがわたしの中にはない。ある人にとってはそれが真実で、同じものが他の人にとっては嘘偽りであるかもしれない。

 表裏一体の概念がふよふよと浮遊していて、自分こそは正しいと思ってしまう烏滸おこがましさの中では、何かを失ってしまう気がする。

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 わたしたちは、神様ではないから過ちを繰り返す。

 だからわたしは、今あるべき本当の姿は何かということを、心の中で探し求める。暗闇の中でも謙虚さを意識して、なんとか探り当てようと注力する。悲しいかな、それは一筋縄ではいかぬ。時々、距離を見誤る。

 息をするのも苦しくなるような、言いようのない不安に駆られる出来事は、生きていればいくらでもある。そんな時には、人に見せないようにふぅーと呼吸をする。正直なところ、誰かにどうか見つけてほしい、この苦しみからわたしを救い出してほしいと思ってしまう。手を差し伸べてくれる人が現れることを、気がついたら心の中で願っている。

 でも、本来は「救済」とはセラフィマとイリーナの関係性のように、双方が実は救いの手を差し伸べている形が正しいのではないだろうか。側から見ると、歪んでいるように見えたとしても。その世界が、彼らの中できちんと筋道があっていればよいのだ。

 ただ待っているだけでは、きっと何も起こらない。自分自身も身近な人に対して、見知らぬ誰かに対して、なんとかこの人のためになりたいと頭をめぐらすこと。見返りは多少考えても良いかもしれない。人は神様にはなれないし、何かしらの原動力がないと、行動に移せないから。

 試行錯誤の救済が折り重なって、きっといつか自分が誰かに救われる番が回ってくる。持ちつ持たれつの世界。その繰り返しによって、自然発生的に愛が生じるのかもしれない。

 確固たる、盤石な、信頼し合える関係性という「愛」が。

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故にわたしは真摯に愛を語る

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