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#51 つながりについての愛を語る

 久しぶりに夜空を見上げた。いつでも日々は目まぐるしく変化していて、季節は少しずつ移り変わり、気温もほんの少し暑さが和らいだ気がする。セミは相変わらずやかましく鳴き続けていて、自分の存在を認めてもらおうとせんばかりにけたたましく体を震わせ続けている。きっと、彼らも自分が1つでは生きていけないことに気づいているのではないだろうか。

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 最低でも100回愛を連ねると宣言して以来、気が付けばようやく半分の折り返し地点まできた次第。本企画を知って、「#愛について語ること」にも記事を投稿いただいた方々、ありがとうございます。さて、少しずつ皆様の愛を感じることについても折々取り上げていければと思います。

 今回は志彌 -ゆきみ-さんに投稿いただいた記事に関してのご紹介です。ヒーリングという言葉自体は知っていましたが、これまでそれほど深く調べようと思ったことはなかったので、この度記事拝読させていただいて何やら壮大な話だなとほぅと息が漏れました。

 きっと普段思い悩むことばかりだけど、思考の捉え方ひとつで見え方が変わるのだろうなと読んでいて感じました。負の感情や自分が嫌だなぁと思うものについても、愛は介在している。それをどう自分自身が捉えるかによって扱い方が変わってくる。理想と現実は勿論違う。理想ばかり追い求めてしまうと、ギャップが生じた時に幻滅する。

 ひとつひとつの物事のつながりを考えていくと、きっと私たちは時を重ねるたびに結びつく糸の数が増えていくのではないのかなと思うわけです。時には、その糸と決別しなければならない日も来る。難しいですよね、その自分が一度関係性を持ったものたちときちんと向き合うことって。それなりにエネルギーを要するので。

 でも例えば自分がつらかったりとか苦しかったりとか、何か底知れないネガティブな感情に襲われたとき。きっと救い出してくれるのは、自分自身が生きている中で必死に紡いできた糸なのではないか、と最近よく思うようになったんです。人やら物事やら。

 他人と関係性を築くのって、労力が要ります。自分が生まれた時から一緒に過ごしている家族とでさえ、強固なつながりを築くのには時間がかかりますよね。家族は最初から「血」という物理的なアドバンテージがあるから身近に感じることはできるけれど、それでも過ごした時間が短くなるといつしか積み重なって不信感へと連なっていく。

 それが、他人同士だとさらにつながりを持つことが難しくなってきます。たとえ長年共に行動した人でさえも、時々何を考えているのかわからなくなって傷つけてしまう。その人の行動に意味を測りかねて、つい感情的になって、追い詰めてしまう。気を許した人だからより一層、一度拗れてしまうと修復することが難しくなる。

 はぁ、私はなんでこんなにも余裕がないんだろうな。そう思って、空を眺めるとまばらに光るは星と月。疲れ果てたときに空が広い場所や海が広がる場所、自然に囲まれた場所へ行きたくなるのは、無心の愛を語りかけてくれるからなのではと思ってしまうんですよね。

 人の手で介入したものではなく、長い年月をかけて創り上げられたものたち。それは本当に神様が、私たちのために用意してくれたものではないかとそんなふうに思うわけです。空には預かりしらないほどの爆発的な「何か」が潜んでいて、頭上から落ちてくる。

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 一方で、最近は昔よりも土地土地での関係性やつながりが薄まったと言われています。おそらく高度経済成長期には、隣近所皆顔見知りで困ったときにはお互いを助け合うというコミュニティが発達していたことでしょう。

 でもそれはおそらく諸刃の剣で、一度不穏な噂が流れるとそれがあっという間に村中へ広がってしまう。そうすると、村八分という現象が起きます。距離が近いとそれだけに、自分の世界に異物が生じたと思われるのでしょう。心情は理解できますが、やられた方は溜まったものではないです。

 私が地元へ帰ったとき、コロナが流行ったとき不運にも病気に罹ってしまった人の家に張り紙がされていたという噂話を聞いて、真偽の程は定かではありませんが胸が苦しくなった覚えがあります。そういえば、それでひとつ短編を作りました。拙い文章です。けれど、うまく伝わればいいなと思って書いたことを思い出しました。

 ちょっと話が脱線してしまいましたが、要はコミュニティの中にももちろん愛があって。それはもしかすると自分の中の一部を形作るものでもあるので、それが歪んでしまうことによって自分自身が裏切られた気持ちになってしまうのだろうか?と思ったりもします。繰り返しですが、人の心って難しい。

 そして時代は移ろい、時は現代。今や地域のコミュニティと言っても昔と比べたらどんどんどんどん薄れてきてしまっていると思っていて。たとえ隣近所に住んでいたとしても、単に挨拶だけしか交わさないという人もいるのではないでしょうか。だから、私たちは外の世界でできる限りつながりを求める。

 家族以外にも大学やらサークルやら。最近多いのはSNSつながりで仲を深めるというケースも。SNSは極端で、本当にフォローしてフォローされるという関係性。たったひとつのボタンでいとも簡単につながりが途切れてしまう。あっけないものです。私たちはできる限り多くのコミュニティを持つことによって、どの糸が途切れたとしても苦しまないように生きている。

 とはいえ、です。私は少なくともこのnoteを始めてから、曲がりなりにも時々フォローしている方からコメントやサポートなどをいただくことによって、救われたような気持ちになったんですよね。noteを離れてしまってTwitter経由で今もなおつながりを持つことができた方もいます。細々とですけど、そうした関係性が心地よいんですよね。

 いつまで続くのかもわからない。けれど、可能ならこの先もずっと今のつながりを大切にしたいと思う今日この頃。リアルなつながりも、SNSのつながりも。ひどく夢みたいなことを言っているかと思いますが、バーチャルでも確かな「つながりがある」と信じたいだけかもしれません。

 つながりの糸を手繰り寄せて、自然でも感情でも人でも自分とゆかりのあるものをギュッと掴んで離さない。……なんとも取り止めのない感じになりましたが、その糸の先にある愛を連ねて今日も、みんな生きているのではないでしょうか。

 少し今自分の中で整理する時が今なのではないか、と思う時があるのです。私自身が必死になって守ろうとしているものの正体を。ちっぽけなプライドだとか、エゴだとか。揺らぐことで、何かおぼろげなものを掴もうとしている気がします。

 その裏にある、つながりという愛を。


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