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#75 哲学と、黒焦げのハニートーストへの愛を語る

↓前日譚は以下にて。

 さて、茫漠とした海の中から掬い上げた原石、それが『水中の哲学者たち』という本。本作品は哲学の話について、著者自身の経験という形でエッセイと絡めて話が進んでいくという流れです。これがあまりにも私の感性にピッタリと寄り添い、思わずスイスイと読んでいたらあっという間に半日が経ってしまってました。もう著者の言葉の一つひとつがあまりにも好きすぎて手元に置きたくなり、Amazonで即ポチです。


 朝、スッキリした気持ちで目が醒める。久しぶりに昨日まで友人たちとキャンプをして語らい、習慣としてやっている将棋も勝ち越した。自然と鼻歌を歌っている。キッチンには八斤のパンが置かれていたので、一枚を手に取ってトロけるような蜂蜜と、濃厚なバターを塗りたくる。意気揚々とトースターに放り込んで5分ほどして出てきたのは、見るも無惨になったトーストの姿だった。齧ると、ジャリジャリとした苦さが広がっていく。

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 思い出すと昔から私は考えることが好きな人間だった。たぶん他人からすると、授業中もボーッと浮ついたように見えるものだから、担任から「おーい、魂戻ってこーい」と茶化されたことを思い出す。一旦考え出すと、他のことが目に入らなくなる性質がある。

 物心ついた時から、「死」ということについて考えていて、自分がいつしか棺桶の中で眠ることを思ってゾッとした。でも、どうしてゾッとするのだろう。棺桶の中に入るということはつまり、私の中にある生命維持装置がプツリと切られてしまったことを意味する。こうして今当たり前に行なっている空気を吸うということも、友人と話をすることも、美味しい食事をすることも叶わない。

 それがなぜゾッとするのだろうか。それはある種自分が何もできなくなるという事実を突きつけられるからだろう。何も感じられなくなるというのは恐怖だ。私がこの世に存在していないという事実そのものが、もしかすると怖かったのかもしれない。

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 改めて『水中の哲学者たち』を読むと、ごくごく平然に私たちは日常の中で哲学という学問を勉強しているのではないかという気になってくる。結婚はどうしてしなきゃいけないのかとか、家族とは血がつながっている必要があるのかとか、正しい生き方とは何か、とか。私たちはその度に壁にぶつかり、悶々とする。まるで水の中で呼吸をしているかのように。

 日常の瑣末な出来事、会社の組織や業務について考えてみる。人はやたらめったらレッテルを貼りたがり、出来事に対して意味づけをしたがる。何かそこに意味や名付けが発生することによって、圧倒的に脳の処理に対する負荷が軽減されるから。いちいち変化を求めると、人は疲弊する。

 この人はこういう人だから仕方ない。自分とはあまりにもかけ離れた行動や考え方をしている人を見ると、そんな風に評する。あるいは特殊な性的指向持っている人たちを時には忌み嫌うこともあるのかもしれない。そう、人は平穏を求める。穏やかでそつのない暮らしを。自分の安穏とした日々を脅かす存在が堪え難い。だから、たとえば「変な人」と一言で絡めてそれで距離を置こうとする。

変化することを渇望していながらも、
 変化することに対して恐れをなしている。

 皆さんも、経験あるのではないだろうか。例えば旅行に行ったときや美術館を訪れたときなど。たいてい一日の終わりにはどっと疲れが押し寄せる。それはおそらく脳が新しい情報を処理するために猛烈に動いているからだ。時にその疲労感は、心地よい満ち足りた瞬間をもたらすかもしれない。

 あるいは、会社における業務効率化のために、今ある業務を刷新するとしよう(ちなみに、私は実際今の仕事において、刷新を提案する側にいる)。そこで働いている人たちは、正直現状に何も不満を感じていない。ところが、半ば突然に上の人たちからトップダウンで業務の刷新についての話をされる。それに対して、最初ほとんどの人たちが反発を示す。

 理由は、彼らの心境にある。新しいことを覚えるにはそれなりの労力が必要となる。彼らにとって業務効率化とは目に見えない空気のような性質のものではなかろうか。「変わること」は楽しみよりも、単純に恐怖の方が優ってしまう。自分の負荷が今よりも増えてしまったらどうしよう。帰るのが遅くなってしまったら。それはきっと一時的なことで、長い目でみると彼らの負担を軽くするはずであるのに、だ。

 ひとえに、彼らは今の業務にあたることが精一杯で、うまくそのメリットを具体的な形で想像することができない。私自身、一時転職を考えていた時期があるだけに、変わることへの恐れみたいなものが容易に想像できてしまうのだ。変わることによって明るい未来になるかもしれない、でもそれは所詮「if」論でしかない。まだ来ない時間軸に、人はそうおいそれと希望を見出すことができない。

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 自分の過去の記憶を遡ったときに、ちょっとした苦い思い出がある。私はこれまで、なんとなく流れ的に団体のリーダー役みたいなものを担うことが何度かあった。その度に四苦八苦していて、心が折れかけたことが一度や二度ではない。真の心の強さとは何かを考え、頭を抱えた。

 正直メンバーのモチベーションが上がらず、もっというと私自身も進め方に困窮していた時のこと。その時中のメンバーが私の状況を見て、リーダーとはこうあるべきだ、ということを伝えてきたのだ。

 私には私にとってのリーダー像があり、その人になんとか理解してもらおうと私自身も少し意固地になっていくつか言葉を返したものの、双方の主張は平行線をたどり、いつまでも結論が出なかった。

 そしてふとした時に「これ、議論になってますか?」と彼女が問う。確かに、と思った。確かに、これは議論ではない。彼女が自分の中にあるリーダーとは何たるか、ということを私に滔々と述べて、あなたはそれではないですと一方的に告げ、私はそれに対してまた一方的にリーダーはこうだと思うと告げる。それぞれが抱いているリーダー像が、彼女にとっての正義で、私にとっての正義だった。

 その時のことを今でも思い出し、自省する日々である。でも、今であるならば少し心の余裕ができて、振り返ることができる。二人は、異なる道に立っていた。まずはそれを念頭に置くべきだったのだ。

 そうか、あなたはその道を歩いていたんだね。今なら地図を持って彼女の立っている位置を確認して話すこともできたかもしれなかったが、当時私はどうにかお互いが合流する地点がないか、あるいは双方が歩み寄れる場所がないかを探していたわけだから、うまくいくはずがなかった。

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 永井玲衣さんのエッセイを読んで思ったのは、哲学とはある意味この世界における自分の道筋を一つ一つ丁寧に、さまざまな事象と絡めて紐解いていく作業なのではないかということ。今VUCAという言葉が盛んに使われることがあるが、いやはや、私が生きている「今」ほど曖昧なものはないと筆者にとても共感した。

 先日Netflixで『ちひろさん』という映画を見た。もともと風俗嬢として働いていた女性がお弁当屋さんで働き、働く中で関わりを持った人たちとの物語が進んでいくという流れである。その主人公が、ある時ふとこう言葉を漏らすのである。

人間は一つの箱の中に入れられた宇宙人だ。違う星からみんなやってきて、時々同じ星の人たちと巡り会う。

 この言葉、素敵だ。みんなそれぞれ生まれ育った環境があり、それによって築かれた自分なりの生き方における哲学が存在している。それを他者と完全に理解し合うことは、正直不可能だと思う。それでも、それでもきっとお互いの考え方の背景にあるものを話し合うことによって、半ば歩み寄りが生まれ、もう少し楽に生きることができるのではないだろうか。だってそうでしょう、私たち違う星からやってきた宇宙人だもの。

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 いまだに口の中にほろ苦い焦げの味が残っている。

 ここ直近で、後悔している出来事はいくつも、いくつもある。あの時もっとうまく立ち振る舞うことができたら、とか、相手ともっと対話することができたらと思うことはあるのだけど、結局過去の偉人たちの言葉や友人と家族の言葉、さまざまな芸術作品を通して、思考をめぐらし、自分の中の物差しの長さを長くしていくしかないのだなと黒焦げになったハニートーストを食べながら思った。

 人生は時に甘く、そしてほろ苦い。それでも私は、今こうして考えを巡らす瞬間を愛している。真っ黒焦げになったハニートーストと共に。

だからわたしは愛する。奮闘した結果、わかりづらくなってしまった言葉も、何を意図しているのかすら全くわからなくなってしまった言葉も。

『水中の哲学者たち』永井玲衣 p.19

 わからなくて不透明。何が起こるかわからない。これもまた、人生。


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