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#40 モノクロームについての愛を語る

モノクローム monochrome [名]
単一ので図画などを描くこと、またはその図画自体を指す。語源はフランス語で「単色」を意味する言葉で、元々は美術の分野で使われた言葉であった。これから転じて印刷写真映画テレビの分野でも、主に白黒のみで表現するものをモノクロームと呼ぶようになった。

Wikipediaより引用

 最近はうまく行っていることが半分と、どうも行き詰まっていることが半分くらい。昔より私は人の感情だとか状況だとか読み取ることは得意になったと思っているのに、蓋を開けてみるとそんなことは全くなくて。周りの人たちが思い悩んでいる中で、手を差し伸べることができなかった事実に心がほんのちょっぴり折れそうになっている。

 何かに飛び込む勢いだけは人一倍あると思っていたのに、気がつけば何をするにも人の顔を伺うようになっていて、私が本当にやりたかったことや伝えたかったことはなんだったっけ?と思ってしまう。かつてあれだけチャランポランだった自分自身が年を重ねて真っ当になろうとした結果、すべり台に頭をぶつけている。今の葛藤を知ったら、昔の自分は笑うだろうか。

 もし自分が今、存在している世界からすべての色が消えてしまったらどうなるだろうか。おそらく最初は違和感を覚えることだろう。純粋な輪郭だけが残り、人は何か余計なことに囚われることもなく、自分にとっての正しさは何かをみることができるかも知れない。彩られた景色によって私たちはいろんなものを認識することができるけれど、溢れ出す情報の波に溺れそうになって、何が正しいかを見失ってしまう。

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 そういえば、はるか昔に写真家の瀬戸正人さんがやっている「夜の写真学校」に通っていたことがある。持参した写真を持ち寄り、毎週新宿御苑にある学校で論評をしてもらう。そこに明確な基準はなく、瀬戸さんが良い・悪いをふるいにかけていくのだ。あれは思えば不思議な空間だった。師曰く、写真は白黒で撮影したときにその本質が滲み出るのだ、と言っていた。

 最近はどこか原点に立ち返りたいと思うようになり、カメラで写真を撮るときにはピクチャーコントロールを白黒のモードにしている。ふだんは勿論カラーで撮影しているので、新鮮な気持ちで撮影ができている気がする。

 情報が少ない分、物事がシャープに見えるし、それから純粋に写真を撮っている上で、面白い景色は何かということを気づかせてくれる。コロナが蔓延した折に、カラーになる前の白黒映画にいっときハマったことがあったけれど、より視点が明確になった気がする。絶え間ない想像力が、働き始める。色が消えると、それだけ想像できる余地が広がる感じがするのだ。

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 ぼんやり街中を歩いていると、人の息遣いがどこからか聞こえてくる気がする。規則正しく、ゆっくりゆっくりと呼吸音が聞こえる。

 自分が失恋したときや心の奥底にとげが刺さったような状態になったときって、不思議とこの世界からゆったりと色が消えてしまう。まるで自分がこの世界に一人ぼっちでいるかのような。どうしようもできなくて、息ができなくて、誰かに手を差し伸べてほしいと思う状態。

 掃除機をかけている人の姿が見えて、こうしている間にもみんないつもと同じように当たり前の顔をして生活をしているんだな、と思う。彼には背負った色彩がない分、妙にリアルな暮らしの有り様を覗いているような気分になって不思議な罪悪感に囚われる。

 ゆらゆら揺れる蛍光灯に中でじっと暗闇を見つめる人がいるなんて思いもしないで、きっと楽しそうに鼻歌を歌っていることだろう。

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 わたしたちはだいたい日常の8割を視覚で補っているらしい。

 その分入ってくる情報も膨大だから何を取捨選択するかは悩ましいところ。色が鮮やかだと、本当は自分が撮影したいと思っていたものにもブレが生じる。あれもこれも取り込みたいという思いが増大して、結局何が伝えたかったのかわからなくなる。

 写真は当然ながら自ら言葉を語ることはない。従って受け手側が積極的に心を開き、それが何を語りかけようとしているのか耳を傾けない限り、応えてくれることもない。より難しいことに、人によってそれらが発するイメージはひとつではない。

 思えば写真を撮るようになったきっかけも、同じように私がきちんと自分の中にある言葉を形にできなくてもがき苦しんでいたからだった。今でも、自分の言葉を正しく相手に伝えられているのか、不安になる。人からの反応を気にして、言葉を紡ぎ、今の自分の中で見えている世界を思い浮かべた。 

 世の中はひたすら思い通りにいかないな、と感じながら日々生活している。ある程度の予想をしながら動いていたはずなのに、大抵そのままのシナリオ通りに進むことがない。物語の中にあるような一発逆転の出来事というのも、そうそうない。

 ご都合主義で進んでいく小説は、どこか頭で理解しようとするたびに少しずつちぎれていく。もっと気楽に日常を楽しい楽しいと言いながら生きていたいと思ってたはずなのに。その通りに突き進んでいくのは難しいみたい。確かに右手でつかんだはずのわたしが大切にしたい思いや物事は、気を抜くと左手からするりと抜け落ちていく。

 だからこそ、本当に時折自分の思いや考えが、相手にピタリと伝わったときに感動をする。その瞬間は、自分の白黒で縁取られていた世界がパッと明るくなったかのように色彩をもって浮かび上がる。

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 たぶん、色が日常から消えたとして、最初はみんな喜ぶかもしれない。些末なことから解放されたと手をあげてバンザイして、やったやったと大きな声で叫ぶ。でもいつか、物足りなくなる時が来るんだろうな。

 何もかもが情報としてハラハラと消えてしまった後で、きっとみんな気が付くのだと思う。自分にとって、何が本当に大切なものなのかということを。何に対して、はち切れそうな愛を抱いているかということを。これだけはなくしてはいけない、人生の糧になるようなもの。支えになってくれる人、モノとのつながり。

 今もこうして、息をしている。色彩に囲まれた、景色の中で。ふとした拍子に色をなくして、もがいて足掻きながらきちんと上を向ける場所を探し続けている。色をなくした世界で、正しいものを見つけられるように。

※過去記事を、改めて自分の状況に合わせてリライトしました。


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