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#56 大阪についての愛を語る(本論)

(前説は以下にて)

 私は今東京で働いている。なかなかカオスである。この混沌としたジャングルというべき場所にいると、時々ふとどうしようもない虚しさに襲われることがあって。なんでも揃う街であることは間違いないのだが、朝通勤する人たちの姿は澱んでいて、目的地のないまま歩いているように見える。

 たぶん私自身が疲れているのだ、と勝手に理由づけた。自分に言い聞かせて、なんの計画もないまま大阪へ夜行バスで向かった。朝の空気はピンと張り詰めている。もうすでに蝉の鳴き声はしなくて、あたりはしんと静まり返っている。空気がいやにひんやりとしている。

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ユニバースシティ

味園ユニバース

 おりしも大型台風が迫っているニュースが流れ、テレビの画面には濁流によって流される家々のシーンが流れている。私は大阪の鶴橋にある宿に身を潜めて、安全と思われる場所からその光景を眺めていた。現実から離れて、少しずつだが体力が回復していた。いろいろ頭をもたげることがあって整理が追いつかなくなっていたのだ。

 大阪にはだいたい5日間ほど滞在していたのだが、天気の良い日にはひたすら歩き続けた。もちろん電車を使うという選択肢もあったのだが、大阪は東京と違って電車を使わずとも歩くことで目的地に辿り着いてしまう。至るところ日本の主だった文化がぎゅっと凝縮されており、見どころが分散している東京とは大違い。おまけにどこもかしこも美味しいものだらけ。

 中津町はおそらく中央線沿いの駅の街並みに少し似ている。レトロな街並みが多く並び、古民家風のお店が軒を連ねる。今若者に流行りのスポットのようで、たくさんの人たちが楽しそうに街中を闊歩している。

 北新地は銀座に似ている。ギラギラとしたネオン、今にもその光の中に取り込まれてしまうのかと思うほど眩い夜の闇。煌びやかな衣装に身を包んだ女性やかっちりとしたスーツに身を包んだ男性が手招きしている。私は彼らの目を見ないようにして通り抜けた。

「大阪ブギウギ リズムうきうき 心ずきずき わくわく〜」と勝手にパロディした曲が頭の中にリフレインしている。「ちょっと寄っていきなさいよ」と満面の笑みで囁きかけてくるおばさんの顔はとても柔和だ。涼しい季節は美味しそうな香りを運んでくる。

 歩いているとやがて見えてくるのが大きな橋だった。たぶん、渡辺橋という名前。夜であろうと昼であろうと関係ない。道路の中央を遮るようにして電車が走っている。ガタンガタタンと威勢の良い音を吐き出している。橋の下を流れる巨大な川の流れは軽やかで穏やかだった。

 日本橋にっぽんばしはアニメの聖地で東京でいうところの秋葉原の景色とよく似ている。鶴橋は東京で言うところの大久保。が、雰囲気は異なる。昔から土地に根ざした韓国の人たちが作り上げた歴史ある商店街。思いの外、韓流ブームにより女性の姿がちらほら見える。

 私はいったいどこに向かって歩いているのだろう。歩いている間に、最終目的地を忘れそうになる。

 ただひたすら何も考えずに道を歩いていたら、気がつけば新世界に辿り着いていた。少し周辺を見渡すと、大阪のシンボルとも言える通天閣が聳えていた。「こりゃうまいたこ焼きやわ」と誰かが呟く声がする。大阪弁が羨ましい。私の故郷である茨城の方便は「〜だっぺ」と語尾をつける。それだけで完全に芋くささが表面化してしまう。悔しいなぁ。

 新世界をよくよく観察してみると怪しげな劇場があって、今どき珍しいペンキ絵が描かれている。まるで昭和の世界にそこだけ取り残されたかのようだ。ニヤニヤ老人が笑って、昼間であるにも関わらず、カップ酒を片手に持っている。その横には、存在感を示すお店がずらりと立ち並び、楽しそうにカップルたちが肩を寄せ合っていた。面白い景色だった。

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 見知らぬ街を歩いていると、自分の中の感性がチクンチクンと刺激されているような気がしてくる。小さな旅行鞄の中には最低限の持ち物しか入っていない。中でも大きなスペースを占めていたのは、2冊の本。

 図書館で借りた『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(著:若林正恭)と『きみはだれかのどうでもいい人』(著:伊藤朱里)の2冊。前者は何気なく図書館の返却口で手にした本、後者は私がふだんより敬愛している方のうち2人も読んでいて気になっていた本だった。どちらもその時の私の感情にピッタリと寄り添うような文章だった。

「明日死ぬとしたら、生き方が変わるのですか?あなたの今の生き方はどれくらい生きるつもりなんですか?」

p.74 『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』KADOKAWA

でも「いま」を生きる、少なくともそう自負して高みから見物を決め込む連中に、きっとこの輝きは永遠に届かないだろう。

p.186 『きみはだれかのどうでもいい人』p.186 小学館単行本

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しがらみよ、サヨウナラ

 自分のことをおそらくは誰も知らない場所に来ると、ホッと一安心する。同時にひどく不安になる。なんて身勝手な人間なのだろうか。衝動に身を委ねて買い物ばかりしていると、何かに操られているような気分になってくる。旅している時くらい、世の中のしがらみから解き放たれたいのに頭の中をぐるぐると駆け巡るものがある。

 道端にはゴミが散乱している。大阪でも東京と同じようにゴミが放り出されていてそれを漁るカラスがいるんだなと当たり前のことを思いながら、トボトボと道を歩く。6月末あたりから少しずつ続けていた転職活動は結果2つの内定をもらったけれど、どちらもお断りしてしまった。

 なんでかと言われると、自分でも説明がつかない。今の仕事がマンネリ化してきたこともあって新しいことをやってみたいな、と思っていたのだけど思えば私はそこまで突き詰めることができたのかというとそうでもない気がするし。おそらくタイミングの問題だったような気がする。

 人との付き合いもそんな感じ。あの人ともう少しボタンの掛け違えていたら何か生まれたかもしれないし、逆にもしかすると付き合うこともなかったかもしれないな、なんてことを考えたりする。全て引き合わせによるものなのかもしれない、と思ったりもしてよくわからなくなる。

 大阪旅行中、2度ほど銭湯に入った。私は東京にいるときも、割とよく銭湯を利用している。なぜかって、銭湯で湯船に浸かることですべての老廃物が精神的なものも含めて洗い流されるような気がしてくるからだ。ちなみに大阪では「銭湯」のことを「温泉」と呼ぶ、という特徴にも気がついた。

 え、大阪に温泉が湧き出ているの?と最初は思ったのだが、そんなことはないらしい。関西の人たちの粋な呼び方が私は結構好きだ。「連れ」も私は最初恋人のことを指しているのかと思いきや、友達のことも含めるらしい。そうしてほんの少し、関東と関西でずれがある。もちろん東京と茨城でも少しずつズレがある。その違いが、ちょっと楽しい。

 最終日は京都に立ち寄った。京都でも銭湯に行った。トラベルケースをゴロゴロいわせながら。はんなりという形にはいかなかった。目的地に到着する頃にはそれなりに汗をかいていて、苦労して到着した感が否めない。

 住宅地の中にぼんやりと浮かび上がる銭湯「梅の湯」。若者を中心としたグループが各地で人手のなくなりそうな銭湯を復興させているらしく、この場所もその一つだった。中は懐かしのペンキ絵と共に、サウナと薬湯が充実していて一息ついた。

 時々人との距離感がわからなくなる。ネットの世界でもそうだし。初めて出会った人と話す時もそうだし。身ぐるみ全部脱いで生まれた時の姿に戻り、他人も同じようにそうしている場所にいると、不思議な感慨に襲われる。

 そうだ、生まれた時私たちはみんな何も身につけていなかった。歳を取るたびに責任だなんだと背負うたびに息苦しくなる。本来はもっと深く息を吸ってもいいはずなのに、時々そんなふうにできなくなる。私は自由ではない、なんらかの制限を受けている。

 女だ男だ、関東人だ関西人だ、大人だ子供だ、日本人だ外国人だ、なんなんだよそれは。あー苦しいですね。そうですみんなぞれぞれの立場で生きているからね。女はニコニコ笑っていると良いよ、男は死に物狂いで働いて家庭を支えるのだよ。大人は社会に出て働かねばならない、子供は楽しく遊んで時には勉強するんだ。境界線、境界線、境界線。時々なんのために生きているのだろうと虚しくなる。

 いや私はね、時にはすべてを放り投げてもいいと思うんだよ。人は苦しむために生まれてきたわけじゃないんだからさ。本来そうした境界線の概念は歴史の最中で積もり積もってきたわけで。大丈夫、そんな堅苦しいことを考えずとも。確かに物事は複雑に絡み合っているけれど、自分一人でこの世界は回っているわけじゃない。

 だから、もう少し気楽に物事を考えよう。まあ明日もわからない世界の中だけど、愛するものを見つけよう。人でも物でも動物でも趣味でもいいから。電気風呂に入ることでピリピリと体が痺れる。少しずつ少しずつ、泡になって弾けていくのを感じた。そうして、いろんな物事が粒になって消えていく。

 私は再びゴトゴトと揺られる夜行バスに揺られながら、少しでも楽しくなる明日のことを考えて眠りについた。


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