#愛、相手を知るとは 私のエッセイ 

特急にちりんに揺られ、曇天を眺める。瓦屋根とお墓、田んぼ、大きな川をいくつも越えるうちに景色は目まぐるしく過ぎていく。人の気配を感じないほど静かな集落には幾本かの、雨で花が落ちた桜の木。
そうしているうちにふと気づく。列車はガタガタと大きな音をたて進んでいるのに、心は静寂に包まれ、言いようのない寂しさが広がっていることに。
小さい頃からそうだった。都会の喧騒とは程遠い田舎を眺めるとなぜか孤独を感じるのだ。そして自分を内省する。私はどうなりたいのか、何を目指し生きているのか、私はどうするべきか。そうしているうちに自分が世界から取り残されている気がする。心は叫ぶ。自分の居場所はここではない、と。

私がnoteを始めた理由は漠然とただ、自分の中に在る、もやもやした、黒いかたまりがどんどんまとまって大きくなっていると感じたからである。目的は『それ』を吐き出して、何か新しい気づきを得、自己理解を深めたい、といったものだろうか。そのため私のnoteはおそらく、自分について考えるにあたり、悩みだけでなく、何かのきっかけによりもう一段階深く自分が『進化』を遂げられた、というようなことを書くことになるだろうと思います。


唐突だが、私は人間関係を深く築こうとする過程で壁にぶつかり、時にその人間関係の破綻を招いたことが何度もある。(必ずしもその原因が私だけにあるとは限らないとは承知である。ここでは自分でその関係を切ることを決めた、ということを指す。)
そこで最近、自分が『事実』を探し、『真実』を追い求め、それをひととの関わりの最重要項目にしている特徴があることに気づいた。しかし、それは本当に正しい考え方なのだろうか。(人間関係構築の上で)

前提として、『事実』と『真実』は別物であることをここで確認しておく。事実は一つであり、真実は人の数だけ存在する。なぜなら、事実はあくまで『起こったこと』であり、真実は『起こったことをその人の頭を通して理解したもの』で主観的なものであるからだ。


当たり前だが人間とは不確実な生き物である。人間、自然を語るにおいて『絶対』と『永久』は存在しない。その場の感情によって人間は行動を変化させるし、その無限とも言える行動パターンが人の数だけ存在する。

それなのに、*1私はその相手の行動の『事実』が非常に気になるのだ。相手の『真実』ではなく。 しかし、事実は一つでもその解釈すなわち真実は人によって違う。ということは、*1= 私は相手の行動の『真実』を自分の尺度で、自分で歪んだ『真実』へと変換させそれを『事実』と思い込みまるで正しいものかのように崇拝しているのだろう。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』によると、この私の思考は『ナルシシズム的な思考』を未だ脱出できていないことを表している。

他人とその行動について自分が抱いているイメージ、すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと、こちらの関心や要求や恐怖に関わりなく存在している、その他人のありのままの姿とを、区別できなければならない。

エーリッヒ・フロム 愛するということ より


彼は、愛することに必要な要素の一つに、著書の中で『知る』ことについて詳しく述べている。それに基づいて人間を理解すると、私たちは人間の魂の秘密、すなわち「その人」そのものであるような人間の奥深くの芯を知りたいという欲求を捨てることはできないようだ。
そのため私たちはその『秘密』を知るために努力する。一つの絶望的で、人々が陥りがちな方法が存在する。それは力によって他人を自分の望むように動かし、望むように感じたり考えさせたりするものである。それはいきすぎるとサディズムになる。

では、どうしたら正しく『知る』ことができるのだろうか。
それは『愛』である。『愛の行為』、すなわち、自分を与え、相手の内部へと入っていくことで叶うものなのである。
さらに相手の現実の姿を知るためには、ナルシシズム的思考により作られた自分の中のフィルターに気づき、相手を、そして自分を客観的に知る必要があるのだ。


なんだか抽象的な話になってしまったが、まとめると

  • 人間関係構築をより深くしていくためには愛が不可欠である。

  • その中で人間の奥底の秘密を「知りたい」という欲求は捨てることはできない。

  • ただ『相手を知る』プロセスにおいて、自分で下した『真実』が自己のナルシシズム的思想により決定づけられたものではいけない。

  • 相手を、そして自分をも『知る』ためには愛の行為によってしか達成されないものである。

  • 客観視により、相手の究極の本質を知ることができる。

  • 自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。


著書の中で彼は本当の意味で愛することができている人間はこの世界のシステム下では非常に少ないという。実際に、彼の言っていることはあまりにも理想的過ぎていて、今の私には現実味を帯びない考え方も多い。
ただ、人間として生きる上で、健全な精神性を学び考察することに対し私はいつまでも興味深くいることに意義を感じずにはいられない。



話は冒頭に戻るが、人間は孤立へ強い不安を覚え、最も強い欲求は、それを克服したいというものであるらしい。車内で、静かすぎる自然の景色を見た際に寂しくなるのは未知の、人の気配を感じない土地が私に孤独を感じさせるからなのだろう。


最後まで読んでくれてありがとうございます。まだ考えも、文章も未熟な大学生ですのでコメントもお待ちしてます、、!
何かと恋愛や人間について色々考えているので、気が向いたらだいこんを覗いてみてください〜〜








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