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花纏

 夜を脱いだら朝になるはずなのに、ときたま夜を纏ったままの人がいて、そういうひとはすこし梨の匂いがして、近くによるとなんだか安心する。なだらかな丘をてっぺんから吸い込んだみたいに。ぼくは今日もそういう憩いを求めてさまようけれどなかなか見つからない。諦めて黒い革のソファにまるまれば、照りつく日差しが窓を透過してぼくに降り注いだ。
 わたしの猫は目覚めると家をゆっくり歩き回る。そうしてしばらくして、やっとどこかやわらかな場所(ベッドだとかソファだとか)に落ち着くのが常だった。きっとあの子を探しているのだろう。先月までここにいた、わたしの親友を。

 美千花は弱音を吐かない子だった。いつもにこやかで、一歩引いてみんなの輪を整えているようなそんな子だった。彼女の白い肌にちらほら散っているほくろが、笑うたびにきらきら瞬いて、わたしにまでエネルギーを与えるようだった。そんな美千花とわたしが仲良くなったのは、高校を卒業する寸前のことだった。美千花が怪我をして、わたしがそれに付き添ったのがきっかけで、今までの時間はなんだったのかというほど急速にひかれあった。互いに打ちあけあって、舐め合って、溶かし合って、心がすっかり重なり合ったところで、ずれが生じてしまった。
 わたしは美千花のことが好きだったのだ。女性として。美千花もきっとそうだったはずだ。ありきたりながら、わたしにはそれが耐えられなかった。美千花を引き摺り込む覚悟が足りなかった。女性としての幸せも確実に掴めるだろう彼女を歪ませてしまう。その責を負う覚悟がなかった。すべてはひとりよがりで、わたしは彼女から離れてしまった。
 そうして数年が経ち、先月初め、わたしと彼女は再会した。わたしたちは、26歳になっていた。美千花は萎れていた。力のない目をしていて、あの頃と同じように常に笑っているようで、何かに怯えていた。あの美しい花が萎れていた。萎れてきてなお、美しいから花なのだった。
 彼女のその様に気づいて、わたしはチャンスだ、と思ってしまった。だって、もういいから。もう。熱いシャワーを浴びながら、そう決意して、わたしは彼女を手折ったのだった。

 そうして今に至る。彼女はいない。これが現実だった。美千花はあの、あざのあるからだで、あざのある手首で、あざのある笑顔で、夫の元へ帰ったのだろう。わたしだけがここにいる。わたしと、一匹の黒猫だけが。

 わたしの猫は毎朝なにかを探すように彷徨っている。


23.0714

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