「考えない」を恐れてしまう
考えない。
これほど難しいことは無い。
世間には考えない、これほど容易いことは無いという人もいる。
考えない、というのは私にとってもはやひとつの動詞として成り立っている。
「考える」の反対という、されど的な立ち位置ではなく、もう独立した立派な行為だと思うのだ。
考えない=思考停止
悪だという意見もあるだろう。
それは確かに思考を停止させている行為だと思う。何事も加減によるが。
しかし、私はこう思う。
考えない、というのは、「余白」である。
その「余白」は、その人を魅力的にするもしくはその人の個性を引き出すものである。
例えば正義感の強いひとであれば、あれやこれやと考えても、頭の中には正論ばかりが渦巻く。
結局社会にとって規範的な行動ばかりをとる。悪いこととは言わない。
しかし、それで心がしんどくなるようであれば、その人は頭と心が噛み合っていないといえる。
「優しさ」「親切」を意識的にやめた時に、本来の「あたたかさ」や「考え方」が現れるのではないだろうか。
時間に追われている人へ。
課題やタスクに焦っている人へ。
同じことばかりに囚われている人へ。
完璧ばかりを求めて自己嫌悪に陥る人へ。
人のことばかり気にして自信が持てない人へ。
あなたの良さは、あなたが理屈で考えたものの中には無い。
考えるのをやめろ、
というのは1番むずかしい。
むしろそこに躍起になっている人は、それ自体をやめて欲しい。
こういう考え方はどうだろうか。
今から例をひとつ示す。
自己肯定感は、高い方がいい、よく言われがちなことだ。
私も自己肯定感高めなきゃ!と、ナルシストになって、そのメッキがベリベリ剥がれた時に、考えて欲しい。
果たして自分大好きな自分じゃないといけないんだろうか。
自分のことが好きになれなくても、自分のことを嫌いな自分でも、いいじゃないか?
そんな私も受け入れる。
自分を好きになるんじゃなくて、自分が嫌いな自分も受け入れる。
それこそが本当の愛だと思う。
好きと愛は違う。
有名な話だが、私なりの解釈で言うと、好きというのは自分にとって都合のいいことに満足することであって、愛は嫌だろうが好きだろうがすべてを受け入れる、認めることだと思うのだ。
そうした時にありのままの自分に居場所ができる。
途中寄り道をしたが、結論をいう。
考えないとは、受け入れることだ。
受け入れたら放っておくのだ。
イメージとしては、食べ物だと思おう。
ゴクゴク、ムシャムシャ…よし食べた。私の消化器官で消化された、あるいはまだ胃の中にある。
だからもう大丈夫だ。
これを何回も考えてしまうのならばそれは何度も食べ物を吐き、もう一度飲み込んでいるに過ぎない。
何も変わらない。
反芻思考というが本当にこのことだ。
今日のひとこと⊿⊿
―――気楽に行こうや気楽に。
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