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【知られざるアーティストの記憶】第88話 S医院の先輩の存在と、車の中の昼食

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第12章 S医院に通う日々

 第88話 S医院の先輩の存在と、車の中の昼食

マリの知人に一人だけ、S医院に通って癌を克服した人があった。それは、マリがこの町に越して来た年から冬場にだけ患った原因不明の重症の全身アトピーを、最終的に完治に至らしめたヒーラーの女性で、名をシマヅヨシエと言った。

立ち上がるのが困難なほどのアトピーに苦しみ、友人たちが勧めるグッズや民間療法、整体などを渡り歩いた末のマリにヨシエを紹介したのは、ダンサーでセラピストの友人ミクであった。ミクはImakokoカフェやその周辺のコミュニティに集うわれわれのことを、いみじくも「ネオヒッピー」と言った本人であり、この界隈ではその多彩さで一目を置かれている存在であった。ミクはヨシエのことを「私の波動調整の師匠」だと紹介した。

ヨシエのセッションはユニークであった。彼女はインターネットでの宣伝を一切行わず、集客はもっぱら口コミのみであったが、感度の良い若い層などにも根強い固定客があった。それまでのフィジカルなアプローチではなかなか完治しきらなかったマリのアトピーを完治させたのは、意外にもヨシエのメンタルなアプローチであったのだ。

ヨシエは美しい人であった。年齢は60代前半で、イクミよりも少し年下であった。顔立ちも美しいが、常に真実を見つめるような深い眼差しや、気品のある落ち着いた物言いがそれを一層引き立たせていた。主張があるのに彼女の魅力にぴたりと寄り添うファッションも、大ぶりなのにちっとも嫌らしくなく上質な気品の漂うアクセサリーも毎度マリの目を引いていた。一言で言えば、憧れる素敵な熟年女性の代表のような人だった。高台にあって眺めがよく、とても気持ちの良いヨシエの家に行くのはマリの楽しみであったが、アトピーが治ってからはしばらく遠ざかっていた。

医者も見放すほどの絶望的な肺癌を宣告されたときヨシエは、まだ母親を必要とする年齢であった一人息子を残して死ぬわけにはいかない、絶対に治すと決めて治療に向かった。そして見事肺癌を克服したことは、初対面の時にマリに聞かせてくれた。普段からほぼ医者に行かなかった彼女が治療を託したのがS医院だったということは、のちにイクミと共にS医院に通うようになってから風の便りに聞いた。それは幾分心強く、何かあったときにはヨシエに連絡を取ろう、とマリは頼みの綱のように思った。

ヨシエのプロフィールやエピソードを彼にも話すと、案の定彼の関心を惹き、その名はすぐに彼の記憶に刻まれた。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』より


2022年2月9日は二度目のS医院受診のあと、彼を国際中医師のタケイさんの治療院に連れて行き、初の受診が実現した。いつものように夫婦での予約日だったが、急用が入ってドタキャンとなった夫の代わりに彼の予約を入れたのだった。マリは初めに彼をS医院に送り届けてから、午前中はマリがタケイさんの治療を受け、S医院からバスと電車を乗り継いできた彼と昼前に合流した。初めての電車のルートを彼が一発で来られるかしらと少し心配であったが、待ち合わせたファミリーレストランの前に呆然と立ち尽くしている彼の後姿を見つけると、マリは嬉しくなって駆け寄った。

マリはそのファミリーレストランに車を停めている手前、ここでお昼を摂ろうと、渋る彼の手を引いてテーブルに着いた。その店は、タケイさんの治療院まで徒歩2分のY駅と治療院との中間に位置し、マリがいつも夫の施術中に時間を潰すレストランであった。あまり美味しいとは言えないレストランであったが、マリは彼との初めての外食が叶うことに歓喜していた。もちろん、タケイさんの施術代だけでなく、昼食代もすべてマリが払うつもりで用意していた。

おしぼりと水が運ばれ、マリは彼の前に開いたメニューを差し出したが、彼は連れてこられた猫のようにちっとも落ち着かなかった。顔を近づけてメニューをさらっと眺めてから、
「ほら、食べられるものが何もないよ。だって、S医院で乳製品とか洋食は食べちゃいけないって言われているから。」
と言った。
「え、そうなの?まあ確かに、この店には洋食しかないみたいだね。どうする?出る?」
「うん、出よう。」
マリは店員さんに、
「ごめんなさい、ちょっと都合が悪くなったので、やっぱり出ます。」
と深々と頭を下げながらレストランを後にした。


©Yukimi 『未来へのレクイエム』No.3(表紙)


「キミが来る前に、駅前のスーパーをちょっと見て来たんだけど、そこで買って食べればいいだろ?」
小さなY駅には多くの選択肢はなく、マリは彼の提案に従った。互いに自分の食べたいおにぎりを一つの籠に入れ、マリは自分で支払うつもりでデザートの大学芋まで入れたが、会計は500円ちょっとであった。レジでは彼が頑なに自分のお金で支払った。

車の中で食べようと言う彼に、
「でも、さすがにこのファミレスで食べないのに、その駐車場で食べるのは悪いから、有料のパーキングに車を移動するよ。」
とマリが言うと、
「ここでいいだろう。」
と意外にも彼は図々しいのであった。マリにはその頭はなかったが、彼に言われると「まあいっか」と安心してしまい、二人で車のシートに買って来たものを広げた。彼もちゃんと半分の大学芋を食べた。先ほどのレストランのときとは打って変わって、マリの車の中での彼が家にいるときのようにくつろいでいることが何より嬉しかった。暖かな車の中での思わぬ幸せな時間が、途中で目に入った店の人からの視線をも気にならなくさせていた。

突然マリの夫と入れ替わった彼のことを、タケイさんは特にいぶかしがらなかっただろう。なぜなら、「近所の白血病を患っているワダさん」の予約を取るのはこれで三度目であったから。一度目は彼の弟の入院日と、二度目は彼自身の入院日と重なってキャンセルとなり、タケイさんと彼とはご縁がないのかもしれないと思った矢先、ひょんなタイミングで叶った「三度目の正直」であった。おそらくタケイさんから見れば、マリは少々お節介の過ぎる隣人として映っていたに違いなかった。しかしマリの夫は、
「タケイさんだって鈍感じゃないんだから、見ればわかるだろう。そういう目で見られるのは嫌だから、俺はもう行かない。」
と、タケイさんの受診をすっぱりとやめてしまった。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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