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【知られざるアーティストの記憶】第76話 『郭林新気功』の功罪

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第11章 決断

 第76話 『郭林新気功』の功罪

マリにとって見慣れない、伸び切った無精髭を蓄えたまま帰宅した彼は、帰るなりすぐにそれを剃り落とすことはせず、翌朝にやっと見慣れた姿に戻った。

入院している1カ月の間に髪の毛もだいぶ伸びていた。長髪だった頃の彼は、女性もうらやむほどの真っ直ぐな黒髪だったが、マリと親しくなった頃には、看護師さんが短く切ってくれたところと、抗がん剤で抜けてしまった部分とでまだら模様になっていた。そこから少しずつ生えてきた彼の髪は、とても細く柔らかなネコっ毛で、なぜかぴんと逆立っていた。マリはひそかに
(星の王子様みたい。)
と思いながら、そのふさふさの頭を胸に抱いた。

なんと、68歳の彼の髪の毛には、見事に一本も白髪がなかった。二回り若いマリは、同世代に比べると白髪がないほうだと思っていたが、前髪のあたりに数本だけ白髪が出てきていた。それを彼に教えられたこともあった。彼は闘病を通じても白髪が生えてくることはなく、生涯完全な黒髪を通した。

星の王子さまのようだった髪型は、入院中に長さが増してつんと立っていることができなくなり、ぼさぼさと落ち武者のようになった。無精髭とも合わさって、あまり美しいものでもなくなったが、マリは今度は、
(ワイルドだわ。これはこれでキヨシローみたいでかっこいい。)
などと思った。
(かわいい看護師さんの前で、もう少し小ぎれいにしておかなくて大丈夫なのかしら?)
とも思われたが、彼は人から自分がどう見られるか、などということはとっくの昔に捨て去っているのであった。とはいえ、社会の物差しとは無関係のところで、彼なりの清潔観念と美的センスによる身なりを保っていた。マリは彼の変化する姿を楽しみつつ、ありのままに受け止めた。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』より


看護師さんといえば、マリが届けたバースデーカードと兼用のクリスマスカードの他に、彼はもう一枚のクリスマスカードを持ち帰ってきた。それは、T病院7階病棟のスタッフ一同からのものであった。マリがそれを見ていると、
「私はみんなから心配されているんだよ。それは、私がどうなるか分からないから。」
と彼は説明した。

彼は一人の看護師さんのことをしばしば口にした。それは、今回だけでなく、先の4クールの入院時にもお世話になっていた人だと言う。
「彼女は一番声のかわいい看護師さんで、マスクをしてるから顔はわからないんだけど。背がとても低くて、140センチくらいしかないんだよ。」
彼の口ぶりから、彼が彼女のことを気に入っていることはすぐにわかったし、彼もまたそれを隠す様子もなかった。いや、彼にとって隠さなければいけないことではなかったのだ。マリは、二十歳そこそこだという看護師さんに彼が向ける眼差しに、複雑な思いがしないでもなかったが、そんな心を潤わせてくれるかわいい人がいてよかったね、という思いも確かに胸の中に存在していた。それ以上でも以下でもないことを知っていたから。

「このガトーショコラは、私のために特別に作られたものだから、キミにあげられないんだよ。」
と彼はその看護師さんに説明して、全部自分で食べたのだとマリに報告した。
(あら、彼女にも差し上げてくれてよかったのに。)
と余裕の面持ちだったマリも、もし彼がそうしていたらいたで、ぷちんとキレていたかもしれなかったが。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・25(グラフィン紙あり)


彼は今回の入院のお供に、『郭林新気功』の他に、以前マリがごそっと貸した指談関連の本を携えていた。そのほぼすべてを読み終えたという彼は、中でも特に、日木流奈ひきるな『はじめてのことば』に感動したようであった。この本はマリがImakokoカフェのせっちゃんに教えてもらって買ったものであった。
「彼の認識は相当すごいよ、天才だよ!」
と、いつになく興奮して語った。

これらの本は、言葉でのコミュニケーションが困難となったマサちゃんの状況を理解し改善するためのヒントを得るためにと貸した本であったが、彼にはその意図があまり伝わっていないようであった。しかし、一般的にはインチキのそしりを受けることも少なくない、言葉を持たない人たちとの様々なコミュニケーション法については、彼は難なく受け入れていた。入院中も彼の貪欲な知識欲は健在で、本を読みふける間は病気に対する不安を感じずに過ごせたに違いなかった。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・25(グラフィン紙なし)


年明けからハートベースで生き始めたマリは、以前よりも彼とのセックスに対して積極的になっていた。
「ツインレイにとって、セックスはとても大事でしょう。」
とメイとのLINEでアダム徳永の情報交換をして盛り上がったり、友人Nに教わった膣トレを始めたりなどしていた。彼に対しても、
「セックスしたいよ。」
と、しつこいほどに伝えた。それはマリの正直な気持ちであるだけでなく、彼が生き方を変えるカギになるような気がした。

愛のエネルギーに触れること。逃げずにちゃんと愛し愛されること。その強力なヨロコビを自分自身に許すこと。そのためにあらゆるしがらみを乗り越えること。

2022/1/16 マリからメイへのLINEより抜粋

反対に彼は、そんな気持ちもどこかに忘れてきたかのように、気もそぞろであった。ハグには応じるものの、心も体も閉じてしまった脱け殻を抱いても、以前のようなエネルギーの交流は一切感じられなくなった。長く入院していたのだから、エネルギーが落ちるのも当然だと思ってマリは、彼を温め続けた。

ところが、あろうことか彼は、マリとセックスができない強力な理由を新たに手に入れた。それは他でもない、マリが貸した『郭林新気功』の中に、「がん患者はセックスをしてはいけない」という意味の記載があったというのだ。精力を使ってしまうから、というのがその理由で、セックスにふけって亡くなった人の事例が書かれていたそうだ。それは一理あるだろうけれど、程度の問題だと思う、とマリは主張した。性エネルギーは生命の根源、生命力の源なのだから、今のイクミの体にはむしろ必要なのではないか、とメイも助言した。しかし彼は、例のごとく、この説を頑なに信じ込んだ。彼に気功を始めさせるのに一役買ったこの本は、同時に何ということを彼に教えてしまったのだろう!

結局、どう生きたいかなんだと思う。
「がん患者」としてだったら、「セックスはしないほうがよい」が真実なのかもしれないけれど、じゃあ「がん患者」として生きて死にたいのか、だよね。

(中略)

彼が病気になった理由のうちの一つとして、女性のエネルギーに触れてこなかった、というのは多かれ少なかれあると思うの。いいから触れてみて、って感じよ。

2022/1/16 マリからメイへのLINEより抜粋

しかし、冷静になると、彼がこれまでにいくつも並べたてた「セックスができない理由」のこれもまた一つに過ぎず、その根底に潜む真の理由を彼はまだ語っていないように思われた。
「できない理由をいろいろ見つけてくるだけで、本当はするのが怖いんじゃないの?」
2022年1月17日、マリはとうとう彼に問い正した。
「そうなのかな。」
素直な彼は、肯定も否定もしなかった。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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