【知られざるアーティストの記憶】第73話 彼の誕生日に届けたもの
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第10章 5度目の入院
第73話 彼の誕生日に届けたもの
マリは、再発して入院中である彼の68歳の誕生日を祝う言葉をカードにしたためるのに、ずいぶんと迷ったに違いない。一切の不安や暗さを排して、前向きな言葉だけを連ねた。彼のほうは、自らの置かれた状況の中で、このカードに書かれている文字をどのように受け取ったであろうか。
誕生日プレゼントには、エコバッグを用意した。それは以前、彼の買い物に同行した際、買ったものをサッカー台に備えられた薄ビニール袋の2、3枚に小分けして入れ、そのまま手で持ち帰ろうとしていたからだった。彼はきっと普段からそのスタイルで、自転車のかごにそれらを入れて持ち帰っていたのだろう。マリから見ると、バラバラの荷物を一纏めにする袋があったほうが断然便利であるように思えた。そういえば彼は、入院荷物をボストンバッグに入れたとき以外に、鞄を持つことなど一度もなかった。だから彼は鞄をもっていないのだとマリは思っていた。ましてや、普段は小さく折り畳めて、荷物が増えたときにさっと広げて荷物を纏められるという便利なものがあることを、彼は知らないのではないかと。マリは数ある柄の中で最も彼のテイストに合いそうなデザインを心を研ぎ澄ませて選んだ。
もう一つ、ネオヒッピーたちが主催するイベントで、カラフルなつぎはぎ調のカシミアの靴下を購入した。それは、カジュアルブランドH&Mのカシミアセーターのハギレを用いて地元のファッションブランドのデザイナーが商品化した、1本1本が一点ものの靴下であった。色の組み合わせによって生まれる雰囲気、前面に現れる色、後ろから見たときの色など、1本ごとに異なる表情を演出していて、むしろ左右違うことを楽しむためのものであった。
普段は地味な服ばかりを着る彼は、本当はこういうテイストが似合うのだとマリは確信した。
「冬には色のあるものを食べるといいんだって。」
という彼の言葉を思い出した。それは、永島慎二だったか、彼の敬愛する作家が語ったポリシーだとのことで、彼はそれに従ってトマトジュースを常備し、それで煮込んだ赤いおかずやスープをよく作っていた。冬にトマトは冷えそうだな、という感想は言わずにおいた。色を問題にしている芸術家に言うには少し無粋な気がして。
とマリは手紙に書き添えた。滑らかなカシミアの手触りは、マリがそれで彼を包みたいと願うやさしさに似ていた。そしてそれは、彼の冬場の足元を温めるのにも最適であった。
これらに添えて、かつて彼の退院祝いにして喜ばれた「卵黄抜きのガトーショコラ」をこの日に合わせてパティシエの友人に焼いてもらった。病院で食べやすいように、1本分を6つのマフィン型に分けて焼き、個包装にしてもらった。
2021年12月23日、マリはとうとう彼に会いに行かれることに年甲斐もなく胸を高鳴らせた。彼はマリがこの日に現れることを予見していただろうか。彼にとって誕生日の重要性はすこぶる低く、
「誕生日って、嬉しいの?」
とマリの誕生日に訊いてきたくらいだった。彼はこの日が自分の誕生日であることさえ、あるいは忘れていたかもしれない。
マリは彼の入院日以来訪れた7階のナースステーションで、イクミの名前と着替えを持参したことを伝え、面会者受付名簿に名前を記入した。「続柄」の欄で一瞬ペンが止まった。彼に「妻」がいないことはここの人たちは承知しているのだ。「恋人」って書いたらどうなるだろうかと妄想しながら、マリはちゃんと「友人」と記入した。
着替えを届けてくれた看護師さんに、
「ご友人のかたがお見えです。」
と声をかけられたらしい彼は、病室からすぐに顔を出した。それは、彼が入院したときとは別の部屋であった。病室の入り口に立つ彼と、ナースステーションの前に立つマリとの距離は5メートルくらいで、移動する前の部屋よりかえって近かった。
無精髭と髪が伸び、別人のように粗野な風貌の彼を
(あなたの薄そうな髭って、伸びるとそんな感じになるのね。)
と思いながらマリは見つめた。入院の持ち物にはカミソリなどの刃物が禁止され、電動髭剃りを持たない彼は約1ヶ月間髭を伸ばすのだ。対するマリは、久しぶりに彼の瞳に映る自分が最もかわいらしく見えるように選んだ上着が、病棟の中では少し暑すぎた。
「部屋を移動したんだよ。私が朝の5時くらいに窓を開けたり、タオルケットをはたくもんだから、隣のベッドのおじいさんに怒鳴られちゃった。そしたら次の日に私が移動することになった。」
彼は可笑しそうにニヤニヤしながらマリに報告をした。彼はいつも、彼の身に起きた不遇な出来事について話すとき、まるで見物人の第三者のように可笑しそうに話すのだ。
(相変わらずそんなことをしているのか。しかも入院中の病室で。そりゃあ迷惑だ。でも、あなたらしい。)
マリはクスクスと笑った。
「体調はどう?」
彼は治療のことや体調についてもいくつか語ったが、わりと元気そうな様子と、いつもの飄々として穏やかな彼の口調がマリを安心させた。
見て見ぬふりをしてくれている看護師さんたちの邪魔になっていないかと気にしながらも、二人は5メートルを隔てて見つめ合い、いつまでも語り合った。
久しぶりに彼と会ったマリは、やはりどういうわけか頭が割れるように痛かった。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。
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