【知られざるアーティストの記憶】第77話 違った感情
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第11章 決断
第77話 違った感情
彼は深刻な不眠に悩んでいた。マリは三男の保育園に向かう途中にある漢方内科のF医院に彼を連れて行ったが、やはり抱えている病気が病気なだけに、かかっている血液内科の主治医の紹介状がないと勝手に漢方薬を出すことはできないと言われ、不発に終わった。(★)
「眠るためには、薬だけに頼るんじゃなくて、温めたり、緩ませてリラックスしたり、気功や瞑想などのエネルギーワークをするとか、とにかく副交感神経を優位にすることを生活の中でどんどんしてったらいいんじゃない。」
とマリは彼に提案したが、
「私のはそういうことを飛び越えちゃって、潜在意識や家族との関係から来ているんだから、そんなことをしてもダメだよ。したくない。」
と彼は心を閉ざした。そんな彼の気持ちを少しずつほどいていこうにも、
「もう私は破滅に向かっている。」
と思い込んでしまっている彼に、取りつく島は見当たらなかった。彼はせっかく始めた気功も、二日坊主でやめてしまった。
2021年1月18日午後、マリが様子を見に行くと、
「理由もわからないけど、さっきからドキドキドキドキしてきた。」
と彼はマリに訴えた。薬の副作用なのか、彼はどうやら自律神経失調気味であるように思われた。理由が分からない、ということは、彼の潜在意識の何かが体調に作用しているのかもしれない。いったい、彼の潜在意識にはどういうアプローチをしていけばいいのだろうとマリは考えた。
「いいことが何もないな。」
「いいことをしていこうよ。」
いいことは、全くないわけではなかった。例えば彼が突然、
「あれ、手の形がそっくりだね。」
と驚いたように言った。二人の手を並べて見比べてみると、男性としては小ぶりである彼の手は、マリの小さな手と相似形のようによく似ていた(註1)。こんなに器用な彼の手と、こんな不器用なマリの手が似ていてたまるか、と可笑しくなった。なんと、
「ツインレイは手の形が似ていることがよくある。」
などとサイトに書かれていたので、やっぱり、とマリは鳥肌が立ったのだった。こんなことにも幸せを感じるのは、マリだけだったのだろうか。
翌19日、マリは沈み込む彼をどうにか説得して、彼の洗濯用のたらいにお湯を張って足湯に浸からせ、メイに教わった見様見真似の足つぼの施術をした。前夜は薬を飲んでよく眠れたという彼は、
「寝られると気持ちが楽で、生きていたいと思うな。」
と言った。頓服で出された睡眠薬は、毎日飲むと効かないから一日おきに飲むことにしていた。今晩も、へたくそなマリの足つぼの効果で少しでも寝られるといいな、とマリは願った。
1月20日は退院後初の血液・骨髄液検査に彼は朝から出かけた。不安に押し潰されそうな彼を、マリはハグして送り出した。検査の結果、予定されていた通り、翌日から10日間毎日T病院に通いながら、自宅での抗がん剤治療が始まった。
「この抗がん剤は、一粒7000円するんだよ。」
と彼は呆れた声で言った。それは大きめの色鮮やかなカプセルであった。
抗がん剤を服用すると、体はどのようにどれほど辛いのか、マリには想像もできなかったが、いったい通院しながらの抗がん剤治療なんてあってよいものか、とマリには信じられなかった。しかも、季節は極寒の1月、彼は相変わらず自転車でT病院に通うつもりなのだ。マリは車での送迎をしてあげたかったが、最低限の仕事である三男の保育園への送迎とは、両立が難しい時間帯であった。
「別に平気だよ。」
と、彼は淡々とお勤めをこなした。
抗がん剤治療を始めた彼とは、しばらくの間、ハグもお預けとなった。抗がん剤服用中は免疫力が地に落ちるので、集団生活をする子どもたちと暮らすマリは距離を取る必要があるのだ。退院後、二人の間ではキスもまだ解禁されていなかった。そのことを告げられたときの、
「家族を大切にしてね。」
という彼からの笑顔の言葉は、マリを寂しさの淵に突き落とした。
抗がん剤を服みながら彼は、
「死ぬことは怖くないよ。だけど、今の状況で生きていることのほうが辛いんだよ。」
と言った。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。
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