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【知られざるアーティストの記憶】第56話 母性の強い彼はマリの気功に興味を持った

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第8章 弟の入院

 第56話 母性の強い彼はマリの気功に興味を持った

マリは毎朝気功に出かけた。寒くなってくると、彼はマリの薄着であることを心配した。寒がりなマリは決して薄着ではなかったのだが、首周りの大きく開いた服をしばしば着たので、そのたびに彼に注意を受けた。
「寒くないの?私は年中ハイネックの服を着て、首だけは冷やさないよ。」
「ちょっと寒かった。でも私、首周りの詰まった服が死ぬほど似合わないから、つい首が広く開いた服ばかり着ちゃうの。」
そう言って今度は、首周りの開いた服に首巻を巻いて行くと、
「ここに隙間があるじゃない。」
と彼はまだ納得しない。このやり取りが、彼の母親が遺したハイネックの服やアウターをマリに譲ることに繋がった。

彼の家から厳かな橋を隔てたところにあるプールのある公園と、その裏の駐車場がマリのいつもの気功コースであった。気功のあとの瞑想は、ダージャ(※註1)に習ってベンチの上に横たわって行った。駐車場の隣には木々に覆われた窪地があり、そこには平台のようなスクエアのベンチがあった。そのベンチは、カラスに糞を落とされない限り、マリのお気に入りの瞑想場所であった。

(註1)→前出。マリの気功の先生。

雨の朝は公園での気功を諦め室内で気功をしたが、雨上がりでベンチがびしょ濡れの朝は、彼の家の真横にある橋の下に降りて行き、コンクリートの土手に腰を掛けて、川の音を聞きながら瞑想した。その土手は乾いていて綺麗そうに見えたのだが、マリは息子からのお下がりのシャカシャカしたジャージのお尻に土埃を付けて帰った。
「あ、汚れている!ちょっと待って。」
彼に言われてマリは玄関でパンパンとお尻の土埃を払おうとしたが、彼はタオルを固く絞ってマリのズボンを拭いてくれた。マリはこのとき、この人の前面に現れている母性をまざと見た思いがした。彼は父、母、弟を世話し続けてきたので、こういうことには自然と体が動くのであった。

「今日は公園のベンチが濡れていたから、橋の下で瞑想をしたんだよ。」
「え、そんなとこでしないで、うちの中ですればいい。気功だって、うちの二階は広いんだから、うちでして構わないよ。」

彼の申し出は意外であったが、ありがたかった。寒冷鼻炎を持っているマリにとって、凍てつく季節の屋外での気功は鼻呼吸に困難を伴うのだ。それでも前の年には霜柱の降りる上をひと冬気功をし続けた。遠くベランダに彼の姿をいつも確かめながら。気功はマリの自宅でもできないことはないのだが、彼に「うちですればいい」と言われればどちらを選ぶのかは明白であった。そこにも垣間見える彼の母性本能と、少しでもマリをそばに置いておきたいという思いがマリには嬉しかったのだ。マリは初めは瞑想だけ、寒さがいよいよ厳しくなると気功から瞑想までの全行程を彼の家の中で行うようになった。彼は忙しく家事をしながらその横を行き来していたが、マリの邪魔は決してしなかった。


©Yukimi 若い頃の作品『LAGRANGE POINT JMN-003』より


近所の太極拳のY先生からは約束通り『郭林新気功』の本を貸してもらい、読み始めていた。そのことをマリが度々話題にするようになったこともあり、このがん患者向けの気功を彼本人が実践するということが、彼にとっていよいよ現実味を帯びてきたのかもしれない。ある日、彼はとうとう、
「キミが先生になって、気功のやり方を私に教えればいいんだな。」
とマリに言ってきた。

「これが気功の先生のダージャさんだよ。」
マリはスマホの画面で、ダージャがこの気功について解説している動画を彼に見せた。彼はしばらく画面に観入ってから、
「彼女も東洋の思想を身に付けている人のように見える。」
と言った。動画の中盤まで観ていた彼は、
「早く気功のやり方を説明しないの?この話は私には価値がない。」
と言った。ちょうど、ダージャは美容効果やファンデーションの話にさしかかっていたので、無理もないかと苦笑しながらマリは動画を止めた。
「この動画にはやり方は出てこないよ。彼女はワークショップで直接やり方を教えているからね。」

マリは二階の部屋で見本を見せながら、気功のやり方を彼に伝えた。彼はすぐに「わかった」と言って飲み込んだが、ただちに行動に移す様子はなかった。マリもまた、彼が気功をする姿を想像することができなかった。このときには、彼はやっとマリの気功に興味を示したものの、二人ともまだ本気になってはいなかったのである。



©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・6


マリが毎月通い続けていた仙骨先生(※註2)は、このところ「ゆるします」ににわかに凝り始めていた。
「ホオポノポノの、ごめんなさい、許してください、ありがとう、愛していますってね、英語の言霊ならいいんだけど、日本語だと強すぎちゃって、真面目に唱えてた人が何人も鬱になっちゃったりしたの。日本語の場合、『ゆるします』の言霊だけでじゅうぶんだと、最近きてるんだよ。『ゆるします』と1日に何回も声に出して唱える、紙に書いて見えるところに貼っとくといいよ。『ゆるします』の漢字は二種類あるから、書くときはひらがながいい。とにかくこの『ゆるします』の言霊は、緩むから、どんなこともうまく行くようになる、最強の言霊なんだよ。わっはっは。」

(註2)→前出

マリはこの「ゆるします」の言霊が気に入って、唱えることにした。違和感のないものであるなら、なんでも試してみようじゃないか。毎日唱えるのを忘れないために、マリは気功後の瞑想の最後に、「ゆるします」を8回唱えるノルマをくっつけた。

この「ゆるします」というのは、「誰かを」とか「何かを」許すという「意味」ではなく、単なる「言霊」、音の持つエネルギーなのだ。マリはこの言霊こそ、彼が唱えてみれば、病気になった原因の根幹に作用するのではないかと直感した。掃除機を振り回しながら大きな声で罵っている罵声の代わりに「ゆるします!」と叫んだらいい、と。

マリは拙い言葉で仙骨先生の話を伝え、
「ねえ、騙されたと思って毎日言ってみてよ。『ゆるします』って。」
と彼にお願いした。しかし、「母からの使者」であるマリの大抵の提案には耳を傾ける彼も、この話には心が動かなかった。物事というのは、それを最も必要としている人には永遠に届かないものだ、というこの世のことわりを見せられたような気分だった。

「ゆるします、ゆるします、ゆるします、ゆるします、ゆるします、ゆるします、ゆるします、ゆるします!」
マリは彼の居間の片隅で瞑想を終えた後、これみよがしに大きな声で唱えるのだった。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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