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透明人間の死

「こんにちは。近頃よくそこで聴いてくださってますよね」

ハルは出窓を大きく開けて、昼下がりの暖かな陽がそそぐ白樺の森へ向かって呼びかけた。

ミミは驚いて、木陰から小声で応えた。

「どうして、分かったんですか…?私がここに居るって…」

「土を踏み締める音や木肌が擦れる音がしますから。それに音の反響の僅かな変化と、あとは気配です」

「あの。ごめんなさい無断で…すごく綺麗な音だから、つい聴き入ってしまって…そのピアノ、まるでオーケストラみたいに華やかですね」

「ああ、これは少し特別なピアノで。響きの重層感がすごいでしょう。それでいて明確で爽やかで。ちょっと泣いている音が出せるところも僕は大好きなんです。ところで、今からちょっと休憩しようと思うのですが、ご一緒にどうですか?どうぞそちらのテラスから入ってきてください」

ミミは驚き戸惑いつつハルの家へ歩み寄り、恐る恐るテラスへ上がった。

奥の扉を開けると、ハルがテーブルの側に佇んでいた。

「コーヒーでいいですか?そこの棚からお好きなカップを選んでください。僕には分からないので」

そこでミミは気が付いた。

ハルは盲目であった。



見えるものを見ることを止めたとき目覚める本能
それは光あるいは両刃のナイフ



「どうぞお気兼ねなく。僕は一人暮らしです。たまに手伝いの人やマネージャーが来ますけど。この家には、最近越して来たんです。自然の中で思い切りピアノを弾ける環境が気に入って…あなたは?」

「私は、この近くの別荘にたまに来るんです。気持ちを落ち着かせたい時とか…この辺りは人が少ないですし…」

「わかります。ここは本当に静かでいい場所ですよね」

「音楽は、お仕事なんですか?」

「ええ。曲を作って提供したり、演奏会をしたりしています」

「そうなんですか。…あの…またピアノを聴きに来てもいいですか?こちらへ…」

「もちろん。いつでも来てください」


その後、ミミはハルの家へたびたびやって来るようになった。

ミミもハルも芸術や自然への造詣が深く、またお互いに相手の知らない事を様々に知っていた事もあって、いつまでも話の尽きないふたりが親しくなるのに時間はかからなかった。

ふたりは急速に惹かれ合っていったのである。



ある日、ハルとミミがサロンで芸術談議に花を咲かせていると、突然部屋のドアが開いて、両手に荷物を抱えた女性が入ってきた。

「あら。ここにいらしたんですか」

とその女性は言った。

「ああアデル。こちらはミミだよ」

「? 何を仰ってるんです?新しい曲ですか?おや、茶器を二客出して…お皿も…お客様でもあったんですか?まあ、そのままにしておいてください、あとでまたここへ来ますから」

そう言うとアデルは荷物を置いて、いそいそと部屋を出ていった。

「…おかしいな?何を言ってるんだろう。ごめんミミ、普段はああじゃないんだけど」

「ううんいいの。いえ、違うの。あの人はおかしくない。私のせいなの。ごめんなさい」

「え?」

「ごめんなさい。ハル私…あなたに言っていないことがある。私ね…私…私の姿は、みんなの目には見えないの」

ミミは透明人間であった。



透明度が極限を迎えた瞬間 
生の真実は溢れ出し
外部へと浸透を始める



「この服も靴も、特殊な透明素材なの…あなたにはわからないと思うけど…黙っていてごめんなさい」

ミミは申し訳無さそうに打ち明けた。

「ミミ。君が透明人間であっても、僕にとっては何も変わらない。話してくれてありがとう」

ハルは優しくそう言った。

しかしそれからしばらくの間、ミミはハルの家へやって来ることはなかった。




ある日の夕暮れ、ドアを激しく叩く音がして、ハルは玄関を開けた。

「ミミ…?!どうしたの一体」

「ハル、私…もうひとつあなたに言っていない事がある」

ハルはただならぬ様子のミミを家の中に入れ、落ちつかせ、椅子へ座らせた。

「ハル…あのね、…私、人を暗殺して報酬を得てるの。殺し屋なの」

絶句するハルを傍らに、ミミは身体を震わせながら続けた。

「私、生まれてすぐに親に捨てられて。見えない赤ちゃんなんて当たり前よね。それで今の組織に拾われて、殺し屋として育てられたの。透明人間は姿が見えないぶん仕事がしやすいから。私はターゲットの飲食物に薬物を入れたり、不慮の事故に見せかけたりしてる。世界中何処へでも行くわ。飛行機にも乗るのよ。航空会社のスタッフを買収するの。空席に見えても私が座ってるかもしれないわ…お金で動く人って何処にでもいるのよ。ハル…これは言わないつもりだった…でも今、毎日苦しいの。私、あなたには黙っていることが出来ない」




淵源よ、己れの生に懸命な命達へ勇気を



「私、生まれてからずっと、生きているという事がよく分からないの。あなたに出会ってからますます分からない」

「ミミ。僕には分かるよ」

「この世界の誰も、両親さえ私の事を知らないわ。自分ですら自分の姿をちゃんと見た事がない。それなのにあなたは、私の事が分かるっていうの?」

「ああ。僕には君の姿がはっきりと分かる。君の事なら僕がいくらでも教えてあげるよ。君の頭のてっぺんから、足の先まで、君の外側も内側も、細かなところまで全部、君がどんな形か、どんな状態か、すべてこの手に取るように僕には分かる」

「どうしてあなたはそんなに真っ直ぐ私の目を見るの?見えないくせに!私は今この自分のままで、あなたと一緒にいるのが辛くてどうしようもないの。ハル。愛してる。あなたが初めて私という人間を本当に認知したのよ。あなたみたいな人は他にいない。でも、今の私はあなたと一緒にいる資格がない」

「資格ってなんだよ?そうか君は殺し屋だ、でもそれは、君が生きていく為にしたことだろう?君が悪いのか?」

その沈黙に森羅万象が耳を澄ませた。

「…ハル…私、色素を投与して透明人間を可視化させる治験に協力する事にしたの。その代わりに、今の組織とすっぱり縁を切る契約。殺し屋から足を洗えるわ。でも、この治験には生命の保証がないの。だからハル、あなたに会えるのはこれが最後かもしれないから…」

「…そんな…どうして…」

今のままじゃいけないのか。変わる必要がどこにある?どうして僕等は出会った?

「これで何かが変わるわ。元々誰の目にも見えない私だもの、死んだって誰も気にしないわ。でも、もし私が自分で自分の事をちゃんと見えるようになったら、もし普通の人間として生まれ変わることができたら、またここへ来てもいい…?我儘を言ってることはよく分かってる。本当にごめんなさいハル。あなたは、今のままでいいと言ってるのに…でも、私はこうするしかないと思った。あなたとあなたの音楽は私を変えたの。私はこれからもずっと、あなたの側に居れる人間になりたい。生まれ変わりたいの」

その言葉を残し、ミミは森の奥へと走り去り消えた。

床に滴り落ちた涙と僅かな温もりをハルに残して。

輪郭揺れる残像を探しひとり立ち尽くすハルに、遠い空の上から冷たい風が吹き下りて、静かな白樺の森に次の季節の到来を告げた。










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