人生脚本―「プログラム(禁止令)」の難しさ

今回は少し、交流分析的な言い方をすると人生脚本理論の中の「禁止令」がどのようにして子供の心の中に入って埋め込まれてゆくのか、そしてそれがどのように影響していくのか、この理論の理解の難しさについて、(臨床的立場からの視点で)考察してみたいと思う。

とはいえ、長く書くつもりでいないので、少しつらつらと思い立ったことを綴ってみたい。


交流分析、人生脚本理論とは

まず、軽く前置きしておくと、人生脚本理論というのは心理学の中でも交流分析(Transactional Analysis)と呼ばれる分野における考え方で、ごくかいつまんで紹介すると、スピリチュアルで言えば「運命」に近い概念かもしれない。交流分析においては、ひとは大抵6歳頃までに、自分の人生、生き方を決めてしまう、自分の死ぬ時期や方法(決して自力で死ぬという意味ではない)まで決めてしまうという。これは一体どういうことなのかと言うと、これまたごく簡単に、しかしほんの少しだけ厳密に言い換えてみると、これは、ひとはだいたい6歳ごろまでに、「自分が人生・日常の中で次々にあらわれる何らかの”選択”をすべき局面において、”どのような選択をするか”」というパターンを決定してしまう。
人生は選択の連続である。ある意味、わかりやすいために敢えて細かい言い方をするが、あなた方はもしかしたら日常、自分はそんなに選択している局面はないよ、と思うかもしれない。だが、顕在意識の自覚はいちいちなくとも、ひとの日常の一挙手一投足は全て、”自分”が選択している選択肢の連続なのである。
人生は、このような小さな選択から、例えば学校進学を有名大学にするのか自分の学力で入れるかどうかというレベルの高い大学にするのか、とりあえず当たり障りなく入ることができて余程のことがない限りちゃんと卒業もできるだろう、という程度の安全策の大学にするのか、などなど、大きな人生の岐路となるような選択もある。家族や会社の上司がこういう態度に出てきたら自分はどうする、という選択もある。
これらの選択パターンは、ひとは大抵6歳頃までに、「私の人生では△に対しては必ずこういう選択をしよう」と決めてしまうのだ、という。
そうすると、少し端折るが、芋づる式に、自分はこういう環境で生きることになる、こういう人生の岐路が来るだろう、こういう出来事を引き寄せていくだろう、というパターンが決まってきて、人生のこのくらいの頃にどんなことが起きて、次にこんな岐路があって自分はこんな選択をしてこんな人生を辿っていって、自分はこれくらいの時期にこんな死に方をする、というところまで、自ずと、6歳ごろまでに、自分の人生の脚本を書きあげてしまうのである。

ある意味非常に語弊の多い書き方になってしまったかもしれないが、何より、ひとの人生の日々、常に常に目の前にある選択肢、これは人間関係や自分の生きる環境や人生自体に非常に大きく影響をしていく。そしてそれが積みあがったものが人生そのものなのであるから、この選択のパターンをあまり狭い範囲に決めてしまっていると、人生の死ぬ時期や死に方までも左右してしまう、ということ。
ただ、ひとは多く、幼い時にこのパターンを非常に狭義なものとして設定してしまいやすい。すると、自分自身に自覚がないまま、大人になっても客観的に見れば実はそれは本人に不利であったり不合理であっても、人生でそのような選択をしていってしまい(局面や状況は実は変わっていても、自分の選択パターンを変えることができない)、なぜだか自分の人生がいつもおかしな方向へ行く、人間関係がなぜかいつもおかしくなる、変な環境・職場にばかり取り込まれる、自分の人生は運が来ない、というようなことが起こってくる。
非常に大きなある種極端な例で言えば、なぜだか数年ごとに離婚と結婚を繰り返したり、なぜか数年ごとに何らかの事故に遭ったり、どこの職場にいっても何度結婚しても毎回そこがブラック企業であったりなぜか毎回家庭内暴力を受けることになったりしてしまう、これらは人生脚本で、本人たちは自覚をしていないのだが(実際例えば7年ごとに事故に遭っていたりしても、そうなっていることにすら気付いていない場合も多い)、プログラムによりそのようなシチュエーションになるようにしてしまっている、と考えられる。

例えるならば、人生脚本(を書いた幼児決断)は、軍師の選択である。
人生を戦に例えるのは語弊を生じやすいのであまりしたくはないのだが、人生脚本を説明するにあたってはわかりやすいので採用すると、例えば大きな戦へ向かっていくためには、軍師は当然ながらまず、最初の陣形・戦術を決める。
では最初はわが軍は陣形A、戦術はBタイプで行こう。
…しかし、戦というのは、だんだんと戦況が変わってくるものである。
すると、軍師は、その戦況を判断して最初の陣形や戦術に固執せず、臨機応変に状況に応じて「では今より陣形をB、戦術をDへと変えよ」と指示を出す。
これができず、戦況が判断できず、もしくは戦況を判断しても自分の最初の策に固執して「いや、最後まで最初に立てた計画・予測・我が策は変えぬ!」とやっていれば、当然ながら負ける。

人生も、年代や時代が変われば環境も変わる。周囲の人間関係の在り方も変わる。
…これが、ひとの「幼児決断」というものは、その本人に自覚されない(言語化能力が育つ前の)時期に作られて埋め込まれてしまうため、成長してから環境が変わっても、自分の戦術(パターン)や陣形に気付くことができず、うまく適応することができない、ということが、起こってくるのである。
交流分析の言い方をさせれば、人間の問題というのはほぼ100%人間関係(パターン)の問題なのだが、これは更に、全てがこの「人生脚本」と実際の今の状況との不適合に帰結する。
セラピスト的に(そして語弊を恐れぬ短い言葉で)言えば、クライアントさんがご自身の人生脚本に書き込んで来た内容を読ませていただけば、クライアントさんの真の問題も、その解決法も、自ずと浮かび上がるため、人生脚本理論というのは臨床家の効率を驚くほどに高める。交流分析・人生脚本理論を落とし込んでいるかどうかは、ある意味決定的な差、というよりも臨床家には不可欠と言っても良いと、私は感じているほど、地震があった時でも崩れぬ全ての地盤となり得る理論である。

人生における、なぜか思い通りに行かない”パターン”―人生脚本のプログラムを強化する心理ゲーム

さて、そしてもうひとつ。
先程も述べたように、いくら幼児期に「人生と言うのは全てこうなんだ、だからこのパターンで行くぞ」と強固に決めてしまったところで、人生、必ず何らかの形で環境は変わっていく。
すると、ひとは実は、幼い頃に決めたその「人生の選択パターン」を強固に強固に護っていくために、今度は自分のいる環境を変えだす、ということを始める。
環境を変えるために自分が過去のその戦術を使える環境(しかしこれは大抵本人にとっては苦しい)へと自分がどんどん移動して入って行ったり、周りの環境をそのようになるよう、その戦術が使えるようにコントロールしようとしたり、今度はそうコントロールしようとするがゆえに何やらおかしな問題が更に起こったり。
説明が複雑になるので非常に語弊のある単純な説明の仕方をしたが、交流分析ではこれを「心理ゲーム」という言い方をする。
そしてこの心理ゲームは、本人はまず自覚することはできないものなのだが、これはそもそもの幼い頃に自分の中に書き込んだ人生脚本(禁止令)を、更に更に強化していくために行うものなのである。
これに何らかの形で気付くことができるか、もしくは余程人生の中で大きな事件でも起こり人生そのものを外側から揺るがされるほどの体験でもしない限り、ひとはこの心理ゲームを自分の人生の中で積み重ね、また、エスカレートさせて大きくし、自分が6歳頃までに自分の中に書き込んだ人生脚本通りに自分の人生を動かして行ってしまうこととなる。

今回はこの記事において交流分析や人生脚本理論の紹介をしたいわけではないのでかなり乱暴な説明をしているが、非常にひとの生き方や人間関係というものの核に迫ることのできる深い学問であるので、興味のある方はぜひ正式な交流分析協会で講義を受けてみるか、別に交流分析の資格は不要だよという方は私もセミナー(この理論を使ってご自身の人生を整える方法を学ぶ)を開いているので、お声がけいただくと面白いだろうと思う。

禁止令とは

さて、では、その人生脚本。
そして人生脚本の中でも、人生の中途から不適合なものとなるプログラム、特に「禁止令」と言われるものについて。
これが一体どうやって幼児の心に書き込まれていくのか。

いや、これもまともに説明をすると交流分析の最後の最後に一番難しい理論として展開されてくる人生脚本理論の中で学ぶものであるため、ややこしくなるのだが。

ただ、まず禁止令というのは何か。
ひとは大抵、信条を持っている。あなたもきっと、「〇〇は~あらねばならない」だとか「~しなければ(でなければ)ならない」という信条を、1つや2つは持っておられるだろう。そしてもしご自身の中にそんなものはないよ、と自覚がない場合でも、そういう場合ほど、あるものでもある。

さて、禁止令というのは、簡単に言うとこの逆の信条。
そして自分が言語を獲得するより前の段階で人生の中に埋め込まれる、「~してはならない」「~であってはならない」という類の、しかも先程の「~ねばならない」信条以上に自分の自覚しにくい深さに隠れ埋もれている、信条のことだと解釈するとわかりやすい。

この禁止令ももちろんながら「これ」というものが決まっているわけではなく無数にあるわけなのだが、特に有名なものには、グールディング夫妻が発見した、というより言語化して表現した、12の禁止令というものがある。
例えば、「存在するな」「男・女・お前であるな」「子どもであるな」「成功するな」など。

禁止令は、どうやって心に埋め込まれる?

そしてこれらの禁止令、いつ、どうして子供の心に入るのか、というところになった時、これを
「親に埋め込まれる」と説明したり、解釈してしまう場合が多い。
実際、交流分析ではこの禁止令の定義としては、「基本的に言語を獲得するより前までの段階で、親のP(※)から子供のPへと受け継がれるもの」と説明する場合が多い。(※Pとは交流分析用語だが、簡単に言うと表面的に頑なに駆り立てられるように守ってしまう信条の部分)

確かにごく一言で説明してしまえばそうなるのだが…しかし、このように理解をしてしまうと、臨床現場では非常に矛盾が生じて、人生脚本分析が途中でうまく行かなくなってくる。
(人生脚本理論をしっかりと習った場合は、もちろん以下のことも教えるとは思うのだが、インターネットなどで調べると表面的な理解しか得にくい場合が多い。その上、幾分、交流分析を学ぶ人自体が自身の負のプログラムを何とかしたいと学び始める人も多いため、「やはり親から入れられたんだ!」という解釈割合も大きくなりやすいかもしれない)

ひとつ付け加えたいことがある。
人生で、ひとはひとを、自分の言葉によって直接命令したり、動かしたり、言葉を埋め込んだりすることは、決してできない。
ひとがひとをコントロールすることは不可能である。
(そして、これが頭だけの理解でなく本当に腑に落ちた理解ができる人も多くないように感じる。というのも、”これが腑に落ちてしまったらまずい、矛盾する”人生脚本プログラムを持っている人が多いため)

ある意味、催眠療法士がこんなことを言うのは面白いのではないだろうか。
催眠療法士は言葉で暗示を埋め込むのではないのか。

…違うのである。
逆にこれは、催眠療法士だからこそ言えることかもしれない。
ひとの人生というのは、必ず常に「自己催眠」なのである。
(しかし催眠療法士の中でも、この意味を深く理解しているかどうかで催眠療法に対する姿勢や行い方の慎重さが変わってくるだろう)

話を戻すと、禁止令というのは、確かに子供が世界に生まれ出て初めてみる周囲の環境、つまりは親や養育者やその周り、そんなものを「見て」、それに影響を受けて自分自身に書き込むものではある。

そのため、極端な話、もしもはっきりと親が育児放棄タイプで子供に対して「お前なんか生まれて来なければ良かった」などと言いでもしていたら、どうしても、子供自身「ああ、自分は産まれるべきではなかったんだ、存在してはならないんだ」と、いわゆるグールディング夫妻の言うところの「存在するな」の禁止令が入ってしまう。
そのため、「親に埋め込まれる」という解釈は、それはそれである意味、その通りではある(もちろん、それを受けた「幼児決断」ではあるのだが、幼児の段階では不可抗力にそれがダイレクトに肯定されてしまうわけであるから)。

禁止令が埋め込まれるのは、家庭環境が「悪い」のか?ー最近流行りの「毒親」とは?

ただ、難しいのはここからである。
「存在してはならない」「私は愛されていないし愛されてはならない」というような禁止令が入っている人は、哀しい話ではあるが、現代の日本にはたくさんいる。
しかし、少し気を付けたいことは、この人たちをカウンセリング・セラピーしている時、あくまでも、親がいわゆる「毒親」であったり育児放棄であったり子供を愛せない・愛していない・あからさまに育て方がおかしかった人であるかというと、そうでない場合も多いということ。
特に「毒親」という言葉がここ10年ほど流行り出してから、「愛着障碍」=「毒親」というような図式が広がってしまい、一般的な語弊や、クライアント達の葛藤や苦しみが強くなってしまっている側面がある。

ダブルバインド―板挟みになる子供心

例えばだが、ダブルバインドという言葉がある。
ダブルバインドという言葉の意味自体は、正反対の言動や態度を提示することで相手を混乱させ、縛る(身動きとれなくする)ことである。
以前の記事、特にエリクソン催眠に関しての記事などでもダブルバインドと言う言葉を私は使っているが、例えばエリクソン催眠で使われるダブルバインドは治療的ダブルバインドと呼ばれ、「今リラックスをしますか、それとももう少し後でリラックスしますか」というような、あなたに選択肢はあるけれどもどの道あなたはリラックスするんですよ(逃げ場がない=リラックスする運命に縛られる)という暗示を含むものである。
これが、日常生活の人間関係において、本人たちも気付かずいつの間にか、非常にひとが苦しむような形で使われてしまう場合が多い。
例えば、子供に対して両親が家でいつも、「嘘をついてはいけませんよ、人には正直に誠実に接しましょうね」などと諭しているとする。これ自体は、どちらかと言えば教育的姿勢である。
しかし、時に両親がテレビのスポーツの試合か何かに熱中している時、電話がかかってくる。子供が「電話が鳴っているよ」と親に伝えると、試合の経過に夢中になっている父親が「いないと言っておきなさい」などとあしらってしまった。
などということが起きたら、子供の心は(子供自身その時自覚にはあがっていなくとも)、「嘘をつかず正直誠実に生きろと言われているのに、今度はそんなことで嘘をつけと言われるのか?自分はどちらを選択して生きたら良いのだろう」と混乱し、縛られる(身動き取れなくなる)のだ。
また、親がいつもいつも、子供を溺愛していつも子供の望むままにしてくれる(子供から見ると、愛してくれている表現に見える)、しかし時に親が忙しかったり精神的に苛立って子供を無視したり子供にきつい言葉やへたをしたら思ってもいない言葉・罵声をぶつけてしまったりする(子供にとっては、自分を嫌っている表現のように見える)と、子供は、本当に根源的な場合、「自分はこの親に愛されているのか?愛されていないのか?」というほど切実な混乱となり、それが「自分は愛されない、愛されてはならない、自分の存在は邪魔だから存在してはいけない」などの禁止令として自分自身に刻み付けてしまい、親の元にいることが安全基地となりきれずに、育ってしまう、ということすら起こり得るのだ。

あくまで「親のせい」か…?

大人、子供を育てているような立場から見れば、「そんな程度で子供の人生が破壊されるのか?!それだけのことで毒親となるのか?!そんなことで育て方が悪い、私のせいになるのか?!そこまで完璧でなければ親になってはいけないのか?!」という話だ。
そう。あくまで、「育て方が悪い」わけではないのである。社会に出れば、情報社会、スピード社会でもある。あらゆる不可抗力の事情が出てくる。そして、親は親で、「親人生」体験は初めてなのである。

ちなみに、ここで私の持論だが、唯一、子供の丁度同時期に、それでも普遍的に愛されているのだ、と気付かせること…というのか、子供が本能的に相手の表面だけでなく奥にあるエネルギーを感じ取り気付く、つまり相手の真髄を読み取る力、状況に自分の中で対処する力を、育ててやることも必要と感じる側面はある。
これが現代社会になるにつれ、また物質的に便利な社会になるにつれ、これまたどんどん希薄になっている。
ただ、これは時代・社会とともに育てていくものでもあり、親だけの責任ではない(現代日本の文化・構造自体がどんどんこの力が育ちにくいようになってしまっている)ので、家庭内でできることは本当に限られてしまっている。
これに関してはまた論じていくと長くなるので、割愛するが、現代において急激に増えている発達障碍なども、私は器質的原因だけではないと思えてならない。発達障碍の診断を正確に下すことができないほど、言語能力を獲得する前後というほど幼い頃に、この辺りで刺激され可塑性の種を広げておくべき脳の個所が、その刺激が、現代社会は希薄になっているのではないか。私は私の臨床のために研究してきたあらゆる角度からの理由において、こう思えてならない。まあ、それ自体が証明しようがないし、だからといって日本人の幼少期全員がそこに対処できるようになどしようがない(実質調査できるような年代から”歪み”がベース状態、初期装備となる)から、「器質的」とされるのかもしれないが。
実際骨格の基準にしても体質などにしても、時代と共に「デフォルト」状態は変わってきているのだから。

乱暴な言葉の環境で苦しむ物言えぬ子供心

さて、直接的なダブルバインドの他にも、例えば家族が、普段は愛してくれているのに、何やら度々感情的になっては全く心にもないことを子供に対して発してしまったり、例え子供に対してでなくとも夫婦喧嘩や周囲の人たちとの罵声の飛ばし合いやら皮肉の応酬などなどしていれば、子供はそれをどうしても耳にすることになる。
潜在意識というのは、その言葉が「誰宛であるか」判断できない。
そのため(まあそれはまず最初に飛ばしている本人たちの潜在意識に埋め込まれていく恐ろしいことになるのだが)、子供の心にはそれが自分宛と同じようにぐさぐさと投げ込まれては、極端な例だが父母や地域の人たちが「お前なんか〇んでしまえ!」というような言葉でも飛ばしていたら、子供は強烈に「自分は〇ななければならないのだ、生きていてはいけないのだ」と存在の禁止令という一番恐ろしい人生脚本プログラムを自身に植えつけてしまう。
(恐ろしい例ではあるのだが、これは実際、時代や地域により多く見受けられるものでもある)

親の信条、生き方による、意図せぬ言外の「禁止」

他、親は子供を非常に愛しているのだが…、愛情表現ゆえに過干渉になったりした場合は逆にまたわかりやすいのだが、そうでもなく、日々愛情を注いでいるのにも拘わらず、親自身が持っている別の信条がそうさせる親の行動や言動がもとで、”子供当人にとっては”繋がってしまい、禁止令となって入って行ってしまうというようなことも起こる。
これまたわかりやすいために極端な例だが、親が非常な整理整頓癖があり、子供の持ち物がその辺りに散らかされていたらついつい処分してしまったり事細かに勝手に片付けてしまったり、子供に対して「ここに置かれると邪魔でしょう。ここにもあそこにも。1か所にまとめてくれないと邪魔でしょう(とか”捨てるわよ”など)」などという態度をとったりすると、”子供としては”、「自分(の持ち物)はどこにあっても邪魔。」「親に邪魔と感じられると捨てられてしまう。」「この人(親)にとっては、自分の存在価値もこの持ち物たちと同じで、少し間違ったりいざとなったら捨てられてしまう」「自分も1か所しか居場所がない、決まった場所にしかいてはいけない」「(潔癖で整理整頓をしっかりして常に身辺整理をしていなければ←このような~すれば、という条件を、拮抗禁止令と言うが)存在してはならない」……などなどという、深いメッセージとして受け取ってしまい、度重なるごとに深く強く強化して禁止令として刻み込んでしまう可能性もある。
その上、この両親が共働きで子供にとってはあまり「普遍的な安全・普遍的に愛されている」自信がまだ育っていないような状態であったなら、尚更である。
…そんなことを言っていたら親は何もできない、何も言えないじゃないか!
となりかねないが、これは本当に、偏に「親のせい」ではない。現代の親は、確かに本当に子どもへの扱いが酷い人もいるが、しかし現代社会の中で本当に忠実に誠実に愛の塊で子供と接している人たちもいる。この現代の社会においては、既にバランスが非常に難しい、そして文化背景や構造がそのようになっている中で、頑張り過ぎとなっているのだ。
親がいくら気にしても、どうしようもない部分は非常に大きくなっている。
そして、そんな世の中を生き抜いている中では、親も子も対等である。
子供は子供で、実は「自分が生き抜くために」幼児決断をし、プログラム(禁止令)を書き込んでいく。そのため、子供には子供の選択と受け取り方があるのだ。その受け取り方まで、親はコントロールできないし、そこまでコントロールしようとすると逆に親子関係は対等を失い、おかしくなる。

互いに不可抗力な化学反応

この記事では、記事の最初に記したように、あくまで人生脚本理論に基づいて、禁止令がどうして入っていくか、成長してからひとが苦しむ、その不適応のもとはどのようにして入るのか、その入り方も実は複雑であり、単純判断はできない(寧ろ、あくまで親だけのせいではない)という角度で書いている。
しかしながら、この記事も執筆している私の意思に反し、どこにどのような伝わり方をするかわからない。受け取り手の解釈は本当に受け取り手それぞれである。
もしも、この記事を読んでしまってご自身のお子さんとの関係性や教え子などとの関係性に不安を持たれるようなことがあったら、この記事のためにご自身で深く考えすぎてぎくしゃくする前に、ご相談いただくことも視野に入れて頂きたいと思う。
(私はこの記事の内容については特に、非常に深く語弊も招きやすいので、途中から閲覧制限…noteの場合はそれがないため有料記事にしようかとも悩んだものだった)。


少し続けたい。

「親」の家庭環境

また、子供の親が、その親との関係が悪く、自分が酷い環境で育ったから自分の子供にはそんな育て方はしない、と反面教師で本当に一身に愛情を注ぐのだが、
・愛情を注ぎ過ぎるがゆえにある時、不可抗力で(例えば前述したような、子供の相手をし過ぎる時と放っておいてしまう時と愛情表現のムラが子供に逆効果となり)ダブルバインドが発生
・祖父母(親の親)を通して、例えば祖父母と子の直接の関係や、祖父母と親の関係ややり取りを見聞き体験することで子供にとって望まぬ幼児決断の誘発

などにより、子供に深刻な禁止令が刻まれることもある。

禁止令の世代連鎖

そして親がその親との関係が良好でないなどの場合、親自身が深刻な禁止令を持って人生を生きてきた場合が少なくない。
つまり、その禁止令に縛られた親の人生から出る禁止令に縛られた言動行動ゆえに、その親の姿を見て子供が「自分もそうなのだ」と苦しんで一緒にその禁止令を背負ってしまう、という、非常に言葉では説明しにくい複雑な場合もある。
「強迫性障害はうつる」という言い方をすることがある(私や私の知り合いのセラピストなどの間では。あくまでこれは伝染・感染という意味ではなく、例えば時間に間に合うためには身の危険を冒して赤信号を突っ走っても急いでしまう、などの親を持つと子供もその傾向になってしまうというような意味において)が、これと同じで、非常に端的過ぎる言い方ではあるが、いわば禁止令の受け継ぎ、もしくは隔世遺伝とも表現できるような現象によって、禁止令・人生脚本の世代連鎖が起こる場合があるのである(ちなみに受け継ぎ、隔世遺伝と表現しても、”それを受けて”自分の中に埋め込むのであるから、禁止令の内容は同じとは限らないところがまた非常に複雑である)。


ここまで来ると、本当にもはや親の言葉や態度や育て方という問題ではない。

”愛されなかった人(親)は、自分が愛された経験がないから子を愛する振る舞いができず、世代連鎖が起こる”
というイメージがどうしても強いのだが、
確かに、実際にそういうケース自体は非常に多い。それに世代連鎖の中では絡んで来る場合が多い。しかし、この裏には本当にあらゆる深い背景、事情、メカニズムの交錯、化学反応が起こっているのである。

クライアントさんの二次的苦しみ、問題の複雑化

また、カウンセリングやセラピーをしていて、クライアントさんがご自身と向き合っておられる中で、禁止令が判明してもどうにも抜け出すのに一癖も二癖もある、リフレーミングしようにもどうにも何か複雑に絡んでいる、世間では「幼少期の家庭環境が悪いとそうなる」というようなイメージがあるから、幼少期を思い出しても調べても、どうにも(場合によっては羨ましがられるほど)良好であり、クライアントさんが狭間に陥り更に悩む、というような場合がある。
また、長年カウンセリングに通っているのだけれどもなぜだか全く問題が解決して行かない。というような、実質クライアントさんが「カウンセリング依存」「カウンセラー(セラピスト)ジプシー」のようになっている場合がある。この場合も、これ自体がクライアントさんの、ご本人に気付くこともコントロールすることもできない中で発動してしまっている「心理ゲーム」であり、こうなっていることで実は本人に不利益な人生脚本プログラム(禁止令、自己否定)をひたすら強化してしまっている場合がある(ちなみにこれに関しては近日また記事にしようと考えている)。
実は私自身の内にもそんなものがたくさんあったのだが、いくら向き合っても、セラピーでこの鎖をはずすためにプログラムが入った発端の出来事を催眠療法などで探しても、これがなかなかわからない、出てこないというような場合もある。
そのような時は、上述のような複雑な形であるケースの可能性が非常に高いと思われる。


最後に

ちなみに、人生脚本理論は、とてつもなく深い理論ではあるが、知っていると(身につけているともちろん更に)、自分自身やクライアントさんの中で芋づる式になっている人生の大小の問題群の大きな結び目や、もしかしたらおおもと部分に繋がるものをどんどん見つけていくのに非常に役に立つ。
そこまでも行かずとも、交流分析の人生脚本理論に到達する前までの内容を身につけておくだけでも、人生でどうにもうまくいかないパターンの原因や対処、リフレーミング法などが非常に拓ける。
交流分析という理論自体が、「自分の人生の可能性の選択肢を増やす(選択肢に気付く)」ためのものであるから。

そして、先程、私は「催眠療法などでプログラムの入った発端の出来事を探してもなかなか見つからない、進まない場合、複雑なパターンの可能性がある」というようなことを書いた。
これは催眠療法の中でも年齢退行療法、前世療法、分身療法(パーツセラピー)などを通して可能となってくる方法だが、実は複雑な埋め込まれ方をしたプログラムの場合であっても、催眠をベースとした手法で、これを探ることも可能である(自己セラピーでは難しいが)。
そして人生脚本のプログラム、特に禁止令は、非常に深いために戦術を修正することは難しいと言われてはいるが、潜在意識のアプローチをする方法を編み込んだ方法を使えば、克服し、自己実現の人生へと向けていくこともできる。
あくまで人生脚本は他人に植えつけられたものではなく、自分自身で自分の心の中に書き込んだ(幼児の時点であったのでそう書き込むしかなかったというだけで)ものであるから、自分で自分がどこへ向かっているのか…その目的地と、それが本当に自分が行きたかった目的地なのかどうか、というところに気付くことも、必ず自分の意志で書き換え、克服していくこともできるのである。

そのため、私は来年より催眠療法をベースに、催眠療法資格取得講座の開講と、それを心理療法へと繋げていくためのセラピスト養成のためのセミナーなどを充実させていく計画であるが、それにあたっては、催眠療法を催眠の側面からの技法を学ぶだけでなく、「催眠」を本当に「療法」として、カウンセリングや催眠下で行うセラピー(催眠にいくら入れられるようになってもこちらが本題、初めて”中身”であるので)としっかりと組み合わせて行っていくことができるよう、
そして、まずは学びながら自分自身を癒し整えたい人と、セラピストとして必要な知識と技能を身につけたい人と双方に門戸を開き、内容を展開していく予定である。
中でも交流分析理論は潜在意識や催眠とも親和性が高く、理論自体はとてつもなく深いのだが実はうまくすれば扱いやすくあらゆるセラピーに使いやすい理論でもあるため、まずはこの理論を用いて自分を癒し整えることを通して、将来的にはそれぞれのクライアントさんにもそれを提供していくことができるような、そのような形として、また随所にも色濃く取り入れ組み込んでゆく予定である。

交流分析に関しては既に、交流分析(同時にNLPも取り入れ)を通して自分自身を生きやすくしていく、自分自身を癒し整えていこうという趣旨でのセミナーは既に開講しており、卒業した受講生もおられる。
ご興味のある方、ご自身を深めたい方、理論を学んでみたい方は、ぜひお声がけ、またこちらもご覧下さい。


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