社会的マイノリティのつぶやき

そう。とても言葉にすることが難しいが、

必要以上の配慮

というのは、
怖いのだよな。

配慮されようとしてしまっている、気をつかわせてしまっている、
と感じて、
逆に”自分の動き”がとれなくなる。
自分の動きで動いてはいけないと感じ、封じられて(自分で自分を封じて)しまう。


例えば、食事のときでも、私はついこの前、本気でその場で初対面の人と食事をして、よくわかった。
この人とは完全に初めて食事をしたのに、会食恐怖が出なかった。
いや、会食恐怖があることすらほとんど忘れていたし、大丈夫だったなと気付いて驚いたのは、もうことが過ぎた大分あとだった。

食事をしているとき、私は運ばれてきた、しかも初めての店の初めての盆、器、中身を前に、まずはどうしても盆の上を手で探る。
探り始めると、「あ、右側に手を伸ばしてください。」
言われるがままに、手探りで右手を右側へ走らせる。
「あ、そう、そこ、それです。そこに箸立てがあります。」
これに感激したのだった。

箸の場所を教えてくださった気付きとホスピタリティはもちろんなのだが、私はそれより何倍もありがたかったのは、盆を探り始めたことや、右に手を伸ばせと言われて恐らく晴眼者とは全く違うやり方で恐る恐る探り探り手を伸ばしたことを、まるで気にせず当たり前のようにやるがままにさせてくれていることを感じた雰囲気。
更に、これは言い方の問題ではないのだが、晴眼者が晴眼者にもし言うなら、「右のそこに箸立てがあるので」が先に来るだろう。
もしそう言われたら、やはり「わからなければ、勘で当てなければ」というような予測を必死で働かせ、なるべく最低限の探りで辿り着かねば、というような感覚が出てくる。
ただ、やはりこれは言い方ではないだろうと思う。もし、この人が例え「右側に箸立てがあるので手を伸ばしてみてください」と言ってくれたとしても、私は安心感を持って私のやり方で手を伸ばしていただろうと思う。

その後も、私は私のやり方で器の中も箸で探り探り、落ち着いてゆっくりと食事を進めることができた。
私には私のやり方動き方があることを、当たり前のこととして、何というのだろうか…「見えないから、こういう動きになる」などではなくて、ただただあるがまま、この目の前の存在の方法、やり方を認めてくれていた。
ホスピタリティを感じたが、必要以上の配慮はなかったし、先回りしようとしたり気を遣ってくれようとすることもなかった。
ただ、通常の気遣い範囲というのか、「七味、使います?」「あ、少し遠いので今日は私とりますね」と、その後「上側ちょっと触ってみてください。そう、そこ、それが出てくる口です。」などと、自然と教えてくださった。その後、私がどうしようかなと少しおろおろ考えながらも考案して盆の上にあった匙に七味を入れ、指先で量を確かめていたら、それを見てみぬふりをしながら黙っているのでもなく「ああなるほど、そうやって入れるんですね」と……これも聞く聞かないとか言葉の使い方ではないのだろうな。やはりこの方が根底に何を持っておられてどこから発されているか、なのだろう。

こうした、ただただ対等であるがまま対峙してくださっていると、不思議なことに、私も「私にとって」必要なことは自分から聞いたり、お願いすることもできる。
逆に、「視覚障害を持ったこの人に私ができるときにはできることをしてあげなきゃ」「この人はどういうやり方なんだろう、こういう動き方するのかな、ああいう方法かな」などという思いを持たれながら対峙されていると、この人は私を手伝ってくれようとしていることは同じはずなのに、私自身が、「私自身にとって」必要なことを、聞きにくい。聞いてはいけない、頼んではいけないのではないだろうか、というような気になり、しかも一挙手一投足見られている気がして怖くなり、動けなくなってしまう。
これが会食恐怖の身体反応に繋がっているのだと、気付いてきた。

それかまたはもしかしたら、”私の代わりに勝手に”周りの他者の目を気にしてくれておられるのかもしれない。しかももしかしたら潜在的に。
「人と明らかに見た目が違う動き方になるし時間もかかってもたついて見えるし、私が手伝っていないかのようにも見えてしまうし。人と違うやり方ならば聞いた方が良いじゃない、やってもらった方が良いじゃない」というところが潜在的におありだったりするのかも…わからない。
私はこのやり方でこうして生きているし、私のやり方でなければ私は生きられない。それは例え健常者のひとりひとりでも、全く同じことなのだ。
そして見てはいけないものではないし、見せていけないものでもない。
ただただ、私の目の代わりが手や鼻や耳なのだから。

表面的に、態度では非常にホスピタリティで私を手伝って一緒にいてくださる人もいる。なのに、実は何度一緒に食事をしても、会食恐怖反応が出てしまう人もいる。
相手にとって予想外の動きをしてしまうのではないか(内心を驚かせてしまう・やっぱり見えていないんだなとか「自分との違い」を相手に感じさせてしまう)、と、こちらもこちらでなぜだか必要以上に身構えてしまう。相手にやってもらった方が、「相手にとって」もしかしたら(予想の範疇になるので)安心なのではないか…と…。

どこか比較している目や、手伝いや配慮が必要な対象と見られてしまうと、やはり怖い。

確かに色々な面で具体的な動きとしては多くの手伝いを必要としお願いする身からこういうことを言うのも身が竦むことではあるのだが、例えどんな人でも、日常に得手不得手はあるし、しょうゆひとつとるのでも、自分から距離が離れているというだけで自分の腕の長さでは簡単にとることができないのが人間だ。
逐一見ていないでくれというのでもないし見ていてくれというわけでもない(というよりむしろ道を歩いている時など視覚障害の単独歩行は見守っていただけるとありがたいが…これは身体のバランスが悪かったり周囲への注意がまだできなくていつ転ぶかもしれぬ見守りが必要な子供や高齢者と同じ話である)。
ただ、必要なときは頼らせてもいただきたいし、頼ってもいただきたい。
例え視覚障碍があったとしても、例えば「醤油を使いたいのですが醤油さしがあなたの近くにあるのです。左手を少し前に出していただければあるのですが、とっていただけますか。…ああ、もう少し右、ああ、それです。」などと言って頂ければ、探すこともとることもできるのだ。
(こういう場合、「配慮して下さる」「みんな違って当たり前、ではなく”自分といろいろ違う”視覚障害者を相手にしている感覚を持っている」方は、ちょっと無理をして自分でとろうとしたり相手の視覚障害者に気付かれないよう別の机のものをとりに行くなどする)

確かに私などはなかなか年数の浅さもあり、頼りなく見えるかもわからない。が、私なりのやり方で日常生活もすべてこなしている、ひとりの、単独の存在、いのちであるので、ただ、ただ、私の独自のやり方でも当たり前だと、受け取ってもらえさえすれば(もちろん興味を持たれたり不思議と思うのも構わない。それをある種なにか”特殊な人””見てはいけないものを見ている”ように思ったり扱ったりしないで下されば良いだけで)、私は私の人生存在まるごと使って、時間を共にしてくださっている方と関わることができる。


…と、同時に、私も、いつの間にか、「必要以上の配慮」を受けなくもなってきた。
だから、やはり結局、私自身にも、相手の必要以上の配慮を引き出してしまうかのような部分があったのだろう。
少なくとも、現在私は、必要なことを自分でお願いすることができるようになってきているし、こうしたいのですが、どうすればいいでしょうと、一緒に相談するようなことができるようになっている。
これ以外にも、そもそも、別に住んでいるところが変わったわけでも街の人間が変わったわけでもないのに、道で自然とお声がけいただくこともできるようになっているし、お声をかけてくださる人たちも、以前は不思議と何か冷たかったり逆に無理やりというような感覚があったが、今はどんどん、自然と補い合い支え合ってくださる、しかも、以前は「どこまでいくんですか、行ってあげますよ」という人が多くて一時的に助けてくださる人が少なかった気がするのが、今では横断歩道で「青になりましたよ」だとか、「この横断歩道音響ないから、一緒に渡りましょうか?」だとか、店の入り口を探している時にそれだけ教えてくれたり、連れて行ってくださるにしても「私もこっちですから良かったらそこまで」だとか……話しかけてくださる方まで変わって感じるというのは、不思議なことである。

のだが、やはり、私のいつも記事にしている「一切唯心造」と「魔法陣(人生脚本における外界の捉え方のフレーム・潜在認識・セルフトーク)」が変わってきたからであるという言い方しかできない。

これは、機能不全家族で育った人なども非常に、こうした人間関係うまく行かなくなる「魔法陣」を持っている。
あくまでこれは例えばの話だが、過保護過干渉な母親のもとで育ったとする。
過保護過干渉の母親にずっと育てられると確かに、この記事の前半部分で書いていた私の体験のような状態…つまり全部先回りされたり自分の思っていること願っていることを”出す前に”「あなたはこうして欲しいのよねこう思ってるのよねあなたはこうよね」と慮ってくれているようで実は思い込まれ決めつけられ、そのまま自分自身が何をどう思っているかどうしたいのかどうして欲しいのかすらわからないまま、「私のやって欲しいこと、私の思っていること、私のやりたいことは他人が決めるものなのだろう」という潜在認識が植え込まれて育ってしまう。そして、過保護過干渉の母親だけでなく、本人も本人で、誰かがやってくれるのが当たり前、誰かが無理やり私を支配するのが当たり前、自分なりの動きや自分でできることもできてはならないやってはならない、誰かがやってくれるまで何も言えず待っている、何かやってもらえたとしても必要な助けをお願いできず見当違いなことばかりされる、それでも私は何もできないんですよというように見える態度や言動をとってしまう(そういう風に自分を動かす魔法陣に縛られている)から、誰にもかれにも過保護過干渉にされたり見当違いに接されたり振り回されたりする、というおかしな「噛み合わせ現象」が起きてくる(専門用語では病的な共依存関係と言ったりする)。そしてそういうかみ合わせが成り立つ相手でなければ、人間関係自体ができなくなっていく。
 ちなみに少し余談であるが他の記事と繋げると、そしてこういう「噛み合わせ関係」でないと人間関係ができない人生に陥っている人は、基本的にそれを自分で自覚できないため、だからこそ、人間関係に何か違和感や問題、生きづらさを感じている人は、ご自身の「魔法陣」から抜け出すことが必要なのかも、と思った方が近道なのだ。
もしここで、「ん、何かわかる、私もそうだ、そうな気がする」というような人は、一度専門家に相談をしてみると良いと思う。ご自身の人生、実はそんな過酷な苦しい環境ではなかったのだ、と、生きやすさを手にする道筋のきっかけにきっと出会うことができる。

先日もこんなことがあった。
たまに行く店に食料調達に行って、店に入るなり店員さんがすかさず側に来て誘導してくださり、「かご、お使いになりますか」などと言ってカゴをとってくれたり「1階、2階 先行かれますか?」と、2階に行くと伝えたらエレベーターを押し箱の中まで誘導、2階でエレベーターを出るまで連れて行ってくださった。が、そこで「…いらしたこと、あるん…ですよね?大丈夫…です…よね??」などと言われ、つい私は反射的に(あ、やはり他の客にも店員にも迷惑をかけるかもしれない面倒な客と思われているのかもしれないな。忙しいからできるだけ案内もしたくないのだろうな)などと勝手に思ってしまい、案内は望めないと勝手に考え、「大丈夫です、やってみます」と答え、「そりゃそうだよな、ガイドヘルパーもなしに突然こんなところに独りで現れちゃ、迷惑だよな」などと考えながら、その後2階を苦労して回りながら目当てのものを集めた。途中で他の客が助けて下さり、場所を教えてくれたりもして。その後、1階に行き、やはりこれだけはどうしても自力では探せないと思った商品が2つあったため、サービスカウンターで聞こうと思って並んでみた。
すると、恐らく先程の店員さんが私のところへ来て、「お客様お客様、こっちです、そこ、サービスカウンターなんで。もう、いいんですよね?」と、レジ列へ連れて行こうとした。この時も私はふといじけて(もう、いいんですよね?…やはり早く帰らせたいのだろうか…)といじけた気持ちや邪魔者扱いされたかのような気分を出してしまったのだが、「いやっ、実は〇〇と△△を探していて…お取り扱い、ありますでしょうか」と聞くと、「ああっ、そうでしたか。ありますよ、ではこちらにどうぞ、掴まって下さい」と、丁寧に連れて行ってくださり、そしてそこの商品棚近くにいた店員にも呼びかけ「〇〇、どこにあった?この辺にあったよな?」などとその店員も巻き込んで一緒に案内してくださり、それを集めて「もう大丈夫です、会計に行きます」というと、「ではこちらへ。なるべく並んでないところにしましょうね…こっちで。…ああすみません、やっぱりこっちにしましょう。ここで、次、もうできますので」などと、わざわざ一度並びかけたところを少し戻ったりしてまで誘導して下さった。
会計を終えるとなぜかまたいつの間にかいたのか、会計のところから袋詰めをする机までカゴを持っていって下さっており、「こっちです、こっちにどうぞ。ここにカゴあります。ありがとうございました」と。
袋詰めを終えてカゴを戻そうとするとさっと横からまた空になったかごを受け取りに現れてくれ、「ありがとうございました。大丈夫ですか、よろしければ出口までご案内しましょう。」と、出口の外、そして数段の段差があるのだが、それを降りるまで誘導してくださり、心地良い声で「ありがとうございました。お気をつけて」と見送ってくださった。
面倒な客と思っていたら、例えさっさと追い出そうとするための誘導であったとしても、わざわざここまではしない。しかも、私を急がせるでもなければ、せかせかと連れて行くでもなく。
ただ、手引きやこういう場合の声掛けに慣れておらず、戸惑いがあっただけなのだ。それですら「つかまってください」など、適切な誘導をしてくださった。私が勝手に「この人は~なのだろう、~と思っているのだろう」と揚げ足をとってしまっただけで、結局は、私がついつい「されるがまま、言われるがまま」に動こうとしてしまっていて必要なことを伝えることができなかったがため、相手を戸惑わせ、どう言ったらいいか、どうサービスを持っていっていいかわからない状態にさせてしまっただけだった。
私の心が勝手にいじけようとしていただけだったと気付かされた出来事だった。

白杖歩行生活にまだ慣れがないのでこういう感覚がまだ出やすい部分があるというのもあるのだが、私も、そもそもの生い立ちが過保護過干渉の家庭に育っている。

この魔法陣を脱出して、実は世界は今まで見えていた感じていた世界とはまったく違ったのだ、そして実は自分の力で自分の自由にどこまでも縦横無尽に自身の人生の可能性を拓き飛び回ることができるのだ、と知る、この自由度、この痛快、嬉しさ、だからもっともっと自分のやり方でいろいろなことをやってみよう・狭い世界と思い込み縮こまって曲がっていた手を伸ばしもう少し先に(世界に)手を広げてみようと思う、人生は実は楽しくて仕方がないものなのだと感じる、これは計り知れない。

…社会的マイノリティのつぶやきだけではなく、結局心理専門領域につながってしまった。

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