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選択と決断、新しい世界に挑む勇気を讃える散文。

本日、演劇をつくるためのお話はお休み。

自身がなにか新しいことに挑戦する時どんなことを考えるか、どうやって決めるか、そんな話をちょこっとだけ。あるいは誰かの選択と決断を讃える散文。

選択・決断する基準

自分にとって明らかにマイナスになる場合、得るものが何一つないとわかりきっている場合、ただいいように使われて用が済めば捨てられることが目に見えている場合。当然。デメリットしかないことが明確な話や依頼には近付きません、それは誰だってそうでしょう。

だけど。基準とは別に、物事を選択・決断するにあたって誰しもが油断すると陥りやすいポイント・他者からもたらされる余計なお世話というものがある。悪意はない、しかしこれがあるから人は常に迷うんじゃないかと思っている部分。

不安と自己正当化

不安は言わずもがな。しかし不安を感じるということは真っ当な人間の証であろうからそれはそれとして。厄介なのが自己正当化という心理です。何かを決定しようとする時、第三者から押し付けられると超迷惑するやつ。

すごく雑な言い方をすると、「私はこれがいいと思っている、というか私のアイデンティティである。ゆえにこれを覆し反発しようとする輩は許さない。だからその選択はあり得ない。」っていうのを他人に押し付けるパターン。最悪。君の事情なんて知らんよと。誰かに相談してややこしいことになるのは大概このパターン。その人の価値観や選択を否定しようなんて思っていないのにね。

長所探しと短所探し、短所の方が目につきやすい。

なぜそんなことが起こるのか。これはその人の自信の無さや自己肯定感の低さにも起因するのだろうけれど、個人的には「あら探しをしがちな人間の本質&いいところ探しをすることの難しさ」ゆえだと思っています。

一般的に、人の短所は意識しなくても目につくけれどイイトコ探しは難しいもので、多くの人は「何か・誰かのプラスになるポイントや可能性を考え・探し・見つける」というアクションを重要視しておらず、力が養われないがゆえに伸びることもなく、その力は往々にして弱い。生きていく上で身についていたらスイスイ行ける力であるけれど、身につけていなきゃ生きられない力ではないので積極的にトレーニングする人は多くない。

しかし私は、この力こそが選択・決断の質を高める鍵になると思っています。それはなぜか。この力に長けていれば、物事と向き合った時、長所と短所を並べて検討し冷静に的確に選択できると考えているから。

選択を繰り返しコンプレックスを越えてゆくよりほかにない

そうして選択をする機会が積み重なれば、選択するための時間も短くなるでしょう、短時間で的確な選択ができるようになるでしょう。貫くものと曲げるものの判断も容易くつくようになるでしょう。また、対象物に向き合った時に、これまで自分が対象物をどう捉えていたか、どう思っていたか、そんなことに気付く機会だって増えるでしょう。

これまでの自分であったら避けていたこと、未経験の分野、仲間内の価値観で言うと軟派に見えるもの、自身が目指しているものとはかけ離れているように見えるもの、自分の感覚の中で無意識に格下に見ているもの。

向き合って、悩んで、迷って、選び続けるしかないし、派手なマイナスとかドツボにハマるのでなければ、どんな選択・決定をしてどんな結果になったとしたって間違いでもなんでもナイ。挑戦する意味も価値もある。

第三者からの「こうあるべき」にとらわれて自分の世界や経験、フィールドを狭めるいわれはないし、自分の「これこそが自分」に縛られる必要もない。どこの世界でどんな経験をしようともどう変化・進化しようとも、自分が自分であることに変わりはなく、限りある人生、それならば少しでも世界を広げられた方がおトクではないだろうか。

我ら一人一人、誰かの身代わりでも何でもありませんのでね。

新しいことに挑戦する時、環境を変えようとする時、普段とは違う選択をしようとする時。外野は「あなたのためを思って」だとか、さも親切なふりをしてヤイヤイ言うもしれない。だけどそんなの気にしないでいいと思うよ。

もしも自分の選択をけなされたとしたら「あらまぁ、そうですか。私は実際に経験して広い視野でもって判断するので、憶測で話す軽率な姿勢や親切のふりをした自己正当化、お節介は結構ですよ。」なんて思っておけばいい。

すくなくとも私は、本人が葛藤し・考え・下した選択や決定を尊重するし、もしも身近な人であるならば、その人が決めたことに対して自分ができる限りのフォローはするし、何よりその決定をした勇気を讃えるよ。

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