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私の昭和歌謡

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昭和は遠くなりにけり(おばあちゃんがいつも「明治は遠くなりにけり」って言ってたっけ)私も歳をとったもんだ。 でも、昭和歌謡を聞けば、そこに私の青春がよみがえるの。 だから、昭和人…
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2023年9月の記事一覧

私の昭和歌謡36 虹色の湖  1967

私の昭和歌謡36 虹色の湖  1967

幸せを探し求めて人生を無駄に過ごしたあの若い日々

中村晃子の歌はG&S歌謡曲である。「虹色の湖」もそう。しかもジャガーズと共演したりして、女性ボーカルのバンドのようなイメージを作っていた。

思い出といえば「夜のヒットスタジオ」

1968年から22年間も生放送でがんばった歌番組だ。最後の方はもう観ていなかったけれど、月曜日だけは夜更かし。小学生が11時に寝るなんてイケナイ時代だった。

でも家

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私の昭和歌謡35 星影のワルツ 1966 1968

私の昭和歌謡35 星影のワルツ 1966 1968

別れにもいろいろワケはあるけれど涙がにじむワルツの調べ

私が不思議に思っているのは、どうしてこの曲が名だたる昭和歌謡曲を押し切ってヒットしたんだろう?

「黒ネコのタンゴ」「だんご三兄弟」「グッドナイトベイビー」時の主流に混じって、たまに、こういう異色の曲がヒットする。

日本の歌謡曲をナメちゃいけない。そこは、ありとあらゆるジャンルがつまったおもちゃ箱だ。

「星影のワルツ」はいつの間にかヒッ

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私の昭和歌謡34 伊勢佐木町ブルース 1968

私の昭和歌謡34 伊勢佐木町ブルース 1968

イントロに喘ぎ悶える ァハーンアン 前代未聞の昭和の演歌

「♪♪♪ ♪♬ ♪♪ ♪ アーン アーン」
このイントロにのけぞった!

すごい。こんな始まり方を考える作者も偉大だし、それをやってしまう青江美奈も超一流のプロ歌手だ。

この曲が出てから、モノマネ、パロディ、もうテレビのネタに困らないくらいの大人気だった。

でも、くったくなくマネしちゃうの私が、このイントロだけは・・・恥ずかしい“お年

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私の昭和歌謡33 夜明けのスキャット 1969

私の昭和歌謡33 夜明けのスキャット 1969

歌詞のない流行りの曲を口ずさむ言葉にならぬ想いをこめて

1969年昭和44年のオリコンチャートの10位
日本の歌謡曲は、それこそ何でもあり。世界中からあらゆる音楽的要素を取り込んで楽しませてくれる。ジャンルを超えた祭典。

1位 歌謡曲   由紀さおり『夜明けのスキャット』
2位 演歌    森進一『港町ブルース』
3位 歌謡曲   いしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』
4位 歌謡曲   ピ

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私の昭和歌謡32 新宿の女 1969

私の昭和歌謡32 新宿の女 1969

バカだなとつぶやきながら見上げれば流星ひとつ消えて生まれる

2013年8月。藤圭子が死んだ。

このニュースが流れた時、思い出したのは18歳の「新宿の女」

🎵私が男になれたなら 私は女を捨てないわ🎵と始まる
そして最後に吐き出すように🎵 バカだな バカだな だまされちゃって🎵
これが未練がましさを感じさせないから参ってしまう。

こりゃ、ヒットしない方がおかしい。真似して歌っても(昭和

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私の昭和歌謡31  長崎は今日も雨だった 1969

私の昭和歌謡31  長崎は今日も雨だった 1969

若き日の旅の行手は最果てのすっきり晴れた長崎のまち

私が長崎へ行ったのは、大学生の夏休みだった。鹿児島から北上して鳥栖駅から終点長崎駅に降り立ったのは夜。そこから続く線路がない!!

これは不思議な感動だった。

大学の寮で同室の3人の家にお世話になりながら、そのついでに、どうしても見たかった長崎と雲仙を回った。

「長崎は今日も雨だった」で、すっかり長崎は雨が多い土地だと思っていた私は、滞在中

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私の昭和歌謡30  夢の中へ1973

私の昭和歌謡30  夢の中へ1973

さがしものずっとさがして歳をとりまだ見つからぬ人生の意味

🎵 探しものは何ですか? 🎵
と私が歌い始めると、息子がハモる。
息子が歌い始めると、私がハモる。

で、🎵 さーあー 🎵を二人一緒に高音部を歌っちゃったりすると、すぐに顔を見合わせて微笑んで「あーあ、もう。気が・・・合っちゃったー」となる。

親子だから、二人の声の質はぴったりと合う。

息子が30歳になってもハモる。息子の仕事

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私の昭和歌謡29 白い色は恋人の色 1969

私の昭和歌謡29 白い色は恋人の色 1969

遠い日の恋人は白初恋は青空の色夕焼けの色

「帰ってきた酔っ払い」はふざけたヒット曲だった。話題性があるから、みんな「なに?なに?この声」って聞いた。

ザ・フォーク・クルセダーズは、才能ある3人だった。もう北山修しか生きていない。精神科医の彼は今では私立大学の学長さんだ。学のある彼が作詞を担当した。

はしだのりひこは、プロデビューの時に入ったメンバーだ。背が低いww でも、フォークルが解散する

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私の昭和歌謡28 ブルー・シャトウ 1967

私の昭和歌謡28 ブルー・シャトウ 1967

森トンカツ泉ニンニク囲ンニャクまれてンプラと歌って帰る

ものすごく流行った。みんなが知ってた。みんなが口ずさんだ。

こんな男ばっかのグループなのにww

しかもね、みんなが替え歌を歌えた。お母さんまで、🎵森トンカツって歌いながら、夕飯を作った。

自分のことをオンチだって思っていて、いつも歌なんか歌わない妹だって歌った。ある日私は、妹の替え歌を聞いてしまった。

そのくらい、Aメロはつぶやく

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私の昭和歌謡27 喝采 1972

私の昭和歌謡27 喝采 1972

流行歌ドラチックな物語思い出すのは“黒い縁取り”

私には「昭和のあの頃」が数種類ある。

1960年代のまさに子供だった頃。
1970年代の大人っぽいティーンエイジャー。
そして1980年代の青春時代。

昭和は長いから、一口に「昭和はね・・」なんて言うもんじゃない。

軍歌に混じってジャズっぽい歌謡曲を聴き、若大将シリーズとグループサウンズを堪能して、ちょうど、サイモンとガーファンクル(S&G

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私の昭和歌謡26 亜麻色の髪の乙女 1968

私の昭和歌謡26 亜麻色の髪の乙女 1968

亜麻色の髪の乙女はほんとうは風吹く丘のハスキーヴォイス

ヴィレッジ・シンガース。

GS(グループサウンズ)時代、長髪・不良っぽいのが多い中、なんて爽やかな学生さん、というメンバー。好き嫌いを言えば、私はタイプじゃなかったな。

でも「亜麻色の髪の乙女」はよく歌った。歌いやすいし、童謡っぽい。グループには魅力を感じなかったけれど、ボーカルの声はよかった。

ヒット曲「バラ色の雲」はいい曲だった。

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私の昭和歌謡25 川の流れのように 1988

私の昭和歌謡25 川の流れのように 1988

Adoじゃない七色の声亡き後も昭和の歌姫未だ健在

テレビが登場してから、そこに登場するものは何でもよかった。テレビというものが楽しかったからだ。

「鉄腕アトム」は何で夕飯時だったんだろう、とダンナはボヤく。

お茶碗と箸を持ったまま、土間から座敷をのぞく。父親から「ちゃんと食べてしまいなさい。」今と違って「当時は、その時間しか見れないのになぁ。」へへへ、私の家は、食事の部屋にテレビがあった。

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私の昭和歌謡24 バラが咲いた 1966

私の昭和歌謡24 バラが咲いた 1966

庭でなく心の中に咲くバラを歌い続けて傘寿の祝い

マイク真木は79歳だ。「バラが咲いた」を歌い続けた一生のように私には思える。これは嫌味ではない。

この曲は、ハマクラさん=浜口庫之助の作だ。カンタンな歌詞とメロディーで、つい口ずさんでしまうハマクラソング。

このハマクラさんの「みんな夢の中~ある偽ハマクラ伝~」の断片だけ見た。玉置浩二の「バラが咲いた」は、彼ってハモリも上手いんだーって感心した

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