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私の昭和歌謡32 新宿の女 1969

バカだなとつぶやきながら見上げれば流星ひとつ消えて生まれる


2013年8月。藤圭子が死んだ。

このニュースが流れた時、思い出したのは18歳の「新宿の女」

🎵私が男になれたなら 私は女を捨てないわ🎵と始まる
そして最後に吐き出すように🎵 バカだな バカだな だまされちゃって🎵
これが未練がましさを感じさせないから参ってしまう。

こりゃ、ヒットしない方がおかしい。真似して歌っても(昭和の聞き手は、歌うことで応援した)少年少女合唱隊の私の声は、魅力ある圭子節にはならない。

でも67歳の今になると、声も枯れてけっこうイケるぞ。

その頃は美人の顔と声のギャップにどきどきものだった。とにかく、誰が見たって美人なんだから。

テレビの画面いっぱいに映る。まだうちのテレビは白黒しかなかった。それが余計色っぽく見えた。瞳が揺れる戸惑うような表情と、ハスキーな歌声、輝くような若さだった。18歳。

亡くなってすぐ、娘の宇多田ヒカルからコメントが発表された。でもピンとこない。どうして?なんで?どうなってんの?昭和の私の思い出の歌手へのコメントにしては薄っぺらに感じた。出来過ぎの文章だった。

宇多田ヒカルの歌は嫌いじゃない。私が昭和の歌を好き過ぎるだけだ。

そして・・・
その年の10月に沢木耕太郎のノンフィクション「流星ひとつ」が出版された。

それは28歳の藤圭子へのインタビューをまとめたものだった。「火酒」と「歌手」をかけて章の題名にしてある。おしゃれな仕立てだった。彼のインタビュー相手へのあたたかい思いとこだわりが伝わってきた。

同じ職業の実の娘より、他人のルポライターの方が、ファンが望む追悼を与えてくれるという不思議。感動した。

無造作な会話が藤圭子らしく、まるでインタビュー動画を見ているようだった。

アイドルの髪型を真似るのが流行ったりしたけれど、実は、私は20歳まで藤圭子の髪型を真似ていたんだ。成人式の写真を撮って、卒業したw

初披露(笑)着物は叔母(父の妹)が成人式で着たもの。昭和の子沢山はこうやっておフルをありがたく活用して、記念行事を祝った。

47年前はこんなだったんだなぁ。

これが藤圭子の思い出。


【参考資料】



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