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酒とビンボーの日々 ③酒とビンボー

酒とビンボーとの相性というのは実に良い。
ビンボーのあるところには酒がある。

たしかに酒を飲んでうさを晴らすというのもあるけれど、
ビンボーは身体に沁みるのだ。

ビンボーについて言及すれば、演歌が心に沁みたりもする。
それは僕が40代後半だからということだけでもあるまい。
演歌の中にそこはかとなく感じる、貧しさをベースに苦しさ・厳しさ・哀しさ・寂しさ、などが溢れたような歌を聴くと思わず落涙を禁じえない。

例えば、八代亜紀の「舟歌」なんか聞いて酒を飲んでしまうと堪らない。

歌の中盤、間奏に入る前に「沖のかもめに深酒させてよ…」と
八代亜紀のアカペラになる部分があるのだが、
これは雪の降る秋田の居酒屋で聞いて号泣してしまったことがある。

口下手で孤独な漁師の戯言。
その深い寂しさと哀しさは「ダンチョネ ダンチョネ」でマックスに達する。

肴は炙った烏賊でいい、と嘯くが烏賊しかないのだ。
飯も食わずに酒を呷る。独り身の寂しさと貧しさに指先から凍えそうなのだ。
親兄弟は死んだか、離散したか、はたまた
自分だけ出稼ぎに来てばっちゃに留守番させているか。

勝手の許されない「貧困」がその身をしばりつける。

この歌を作詞した阿久悠の凄みと言うのは
演歌とはいうが、艶歌でもあり、怨歌でもある。
さらには昭和のなかの東北地方の在り方をこの歌を通じて日本中に知らしめたことだ。
集団就職や出稼ぎ労働などいまも実質的には変わっていない。
福島の原発に至っては東京のための体よく利用されたのだ。
東電幹部は訴追さえされたものの、屁とも思っていないはずだ。

こうやって「ビンボーに彩られた世界」は自分の生活で追体験することになる。


さて、ここから全く違う僕自身の話になる。
自慢話と思われてしまっては元も子もないが、ビンボーに堕ちてしまうまでのことを簡単にまとめると以下のようになる。

僕の息子は幼稚園から「とある私立」に通っている。

これのどこが貧乏なのだ?と思う人もいるかもしれない。
だが、先述した「勝手の許されぬ貧困がその身を縛り付ける」を体現しているといっても過言ではないと思われる。

息子の合格した私立の幼稚園とは、
僕からすると名門とは思っていないが、幾代からも大臣や博士など歴史上の有名人を送り出しているようなところで大学までエスカレーター式に上がっていけるような学校の幼稚園だ。

息子は僕には持ち合わせのない、生来からの頭の良さとコミュニケーション能力で見事、合格を果たしたのである。付け焼刃で受験した僕たちはまさか合格するなんて思わなかったから、ここで将来設計が狂ってしまった。

初年度の入学金・寄付・諸費用などは莫大で普通のサラリーマン稼業では払えない金額だろう。僕らはある程度貯金をしていたのでそれを切り崩して払ってなんとか乗り切った。

それからというもの小遣いは減る一方で、挙句の果てにコロナ禍を迎えるにあたって会社の業績は落ちてしまい給料が一気に下がってしまった。それこそ200万近く年収がダウンするという事態に見舞われてしまった。

コロナの初年度は各家庭に支給された1人10万円の義援金で乗り切ったようなものだ。
それに小学校に上がるタイミングでさらにかかる入学金・寄付・諸費用。

僕たち夫婦は追い込まれた。

僕の方は会社には上がつまっていてしばらく昇格する見込みもないし、
オーナー会社でもあるので同族がすでに役員にいる。
もう頭打ちなのだ。

妻はFPでもあるので、僕の給料を全額預けて管理してもらっている。
副業も考えたが、子どももまだ小さいので妻も働けないし、僕だって休日をつぶしてウーバーイーツでもやろうかと思ったが、やっている友だちを見て自分では無理だと断念した。

短気な僕のことであるから、先に手が出て傷害沙汰になるのは目に見えている(苦笑)

友だちは、お金を投げられたり、心無いことを言われたり、と色々と嫌な目に遭っているという。

もう「金がない」というのは既成の事実であるのだが、
それを認めたくない自分もいて、そのせめぎあいはいまだに継続中である。

小遣い月2万で生活をするので、財布に千円しかないことも珍しくもない。なんなら数百円しかないときもある。そういうときに限って弁当を忘れてしまったりする。
しかたなしに半額になったコンビニの菓子パンをむしゃむしゃ食ったりもする。今はコロナだから部下と一緒に外出なんてこともないので、そういう出費の機会がないことは僕にとってはありがたいことでもある。

そんなことの度に僕の心は蝕まれていく。

急な冠婚葬祭、急な外出、急な出張、急な送別会…など、急な出費は立て続けにあるものだ。その都度、妻に相談はするがあまりいい顔はされない。
自分の給料が下がってこんなざまになっているのだから、やはり僕の責任というところに帰着するのである。妻に言いにくいものだ。

この間など、想定外に電気代が高かったので、
その玉突きで水道料金が引き落とされなかったのだ。
それを知らずに、カードをスキミングされて法外な金額を引き落とされているのではないか?などあれこれ手を尽くして調べたりしたが、そんなこともなく杞憂に終わった。
仕方なしにない袖は振れないのでキャッシンクなどをしてその場を凌いだりしていた。
それを1年間くらい続けてしまったが、電気代が妻の想定よりも高かっただけの話だった。

貧すれば鈍す、ではないが、
貧すれば必要以上に出費することに怯えてしまう。
それにその急な出費を妻に言うのは忍びない。
そこでに電気料金を通知してこなくなった電力会社にクレームを入れ、その場で吠えてしまった訳だ(笑)
まさに自分がクレーマーにまで堕ちた瞬間だった。

他にも、子どもにマクドナルドが食べたいと言われると小遣いをもらっている僕の懐から出ることになる。
その分は概して妻から精算などされないもので、そういった小遣いの残りから僕は酒を買うのである。というか「酒」しか買えない。
それが僕の娯楽ということになる。肴は安いアラみたいな刺身や納豆、厚揚げ、野菜などの安いものだけ。本なんぞここ数年買ったことはない。すべて図書館で借りてまかなっている。

僕には「酒」しか娯楽がない。

そもそも犯罪者を国を挙げて弔うような日本の政治家たちにはもとより期待はしていないし、子どもの学校の運営にさえ口を挟めるような立場でもない。作られたシステムの上で踊らされる電気羊のようなものだ。
だから、憤懣やるかたなく苦杯をなめ続けるしかないのである。

貧困はこうして一人の人間を蝕んでいく。自由になるお金がないというだけで人は堕ちるところまで堕ちてしまうのだ。

とにかく、僕には「お金がない」。

こんな時幼い頃に習った、
地球の重さよりも一人の命の重さのほうが重い!
なんていうスローガンの薄っぺらさに辟易する。
だが、こういうスローガンは、
それを信じることができる心の余裕を測れる指標にはなると思われる。

よくこういうときに宗教者たちがいうことの「ひとつ覚え」がある。
「神は我々を試している」のだと。

キリスト教やイスラムなどの一神教がそうなのだろうが、
苦しいときに「神なんかいるかぁ!ボケー!」と言ってしまったら、
宗教に帰依することを否定することと同義なのである。
そこはがんばって神の存在を信じ続けなくてはならない。
それが信仰というものであり、宗教者としての絶対性を約束するものなのだ。

僕は無宗教だし、神の不在を信じているので(爆)、
ここはひとつ、
「このクソがよぉぉ!」と自分の置かれた状況を呪う言葉のひとつも吐きたくもなる訳だが。



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