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酒とビンボーの日々 ①ビンボーは踊る

あなたはいま、
どんな酒を飲んでいるのだろう?

彩花咲く街角で仲間と飲んでいるか、
はたまた、
恋人としっぽりと熱い唇で酒の熱に浮かされているのだろうか。
はたまた、
僕のように買ってきた「キンミヤ焼酎」の600ミリのボトルをゴボウ茶で薄めながら飲んでいるのだろうか?

僕は常に、予算を1000円くらいに決めて焼酎と食べ物を見繕う。

何故なら、それは僕がビンボーにあえいでいるからだ。
月2万で東京でやっていくのはつらい。ちなみに中小企業なので社食があるわけでもない。それに職種は営業なので付き合いもけっこうある。

刺身は半額になったものか、500円以下のモノしか買わない。
そうでなければ安いスーパーの油揚げか、
厚揚げをこんがりとトースターで焼いて納豆をかけて、
「厚揚げ納豆」にするかもしれない。
油揚げであれば油揚げを袋状にして、そのなかに納豆をつめてトースターで炙る「納豆巾着」をつくるかもしれない。

安いがうまい。ひと手間を惜しまない。その武骨さ。
それはまるで秘密基地のように密やかで背徳的なロマンが漂う。

昨今は、男らしい女らしいという性差を表すことが
そこはかとなく禁じられているようだが、
それを「おっさん的」という表現を使うのは、いかにも昭和を過ごし、
「オヤジギャル」ならぬ女性を色々な表現で崇めたて祭ってきた世の中で育った僕らのような世代だけなのだろうか?

まあ、いい。

このコラムはジェンダーを語るコラムではないし、
世代論なんかを大ぴらに書き立てる場所にするつもりもない。

密やかな悦びを見つけ出す、約束の場所と言ってもいい。
そういった「貧者の食卓」というものを描いていきたい。

貧者について回るのは「知恵」である。
     いわば工夫と言えばいいのだろうか。

アメリカの南北戦争のときに書かれた「名もなき兵士の詩」というレリーフにも刻まれた名詩があるが、

I asked for riches, that I might be happy
 (幸福を得るために財力を願った)
I was given poverty, that I might be wise…
 (与えられたのは貧困だった 賢く振るまえるようにと)
                       拙訳 部分引用

こんな名言的なものも、この世になくは、ない(笑)

貧乏自慢ついでにいうが、先日、
ぶなしめじが安く80円くらいで手に入ったのでたまには「アヒージョ」を作ろうとオリーブオイルと塩こしょう、ニンニクでそいつを炒めた。

しめじの水分(いわゆる出汁だ!)がオイルに流れ出し、
いい感じのつまみになるのは目に見えている。
ジュワジュワとオイルの中に入ったニンニクとしめじが音をたてている。

  ああ、もう! 成功が目の前にあるのだ。

僕は湯気を立ててフライパンのなかで煮込まれるぶなしめじを凝視する。
完成した料理も良いのだが、料理のできる過程と言うのも堪らなく美味しいと思う。

大概にして、アヒージョなんて大した料理じゃない。

出汁のでる野菜や海鮮、肉類をいれて焼き、
  ニンニクや鷹の爪をいれて煮込んだらできあがりだ。
こういっちゃなんだが缶詰の素材だっていい具材になる。
オリーブオイルなんて大匙1パイくらいしか使わなくていい。
とにかく素材と煮込むことで、できてしまう。
そんなに難しい料理ではないのである。
簡単なお手軽で成功した料理に喜んでいた僕だが、幸福はすべからく長続きはしないものだ。

非情にも家内から「アヒージョ禁止令」が出た。

なぜかと問えば、
その材料でもある「ニンニク」の匂いがとても「破壊的」なのだ。

その香(かぐわ)しい薫りで蹂躙して一瞬に我が家を荒地に変えてしまう。

  子どもの学校の制服にニンニクの匂いがついたらどうするのだ!?

と詰め寄られ、あえなく王の地位を譲り渡すことになったのだった(笑)
ああ、香(かぐわ)しき王の土地! 
僕はあえなく妻に先祖代々の約束の地をタダで放り出すことにした。

また今日は夕飯のご飯なしのスパニッシュオムレツと
ちょっと高めだがお気に入りの150円の厚揚げ、そして
400円で買った鰤の切れ端の刺身で一杯やっているのである。

それを500円と安くなった「キンミヤ焼酎」で流し込む。
氷はしかたなく、コンビニで1キロを買ってしまったので250円くらいになってしまう。
(本当なら1キロ近く離れたスーパーでは100円で1キロの氷があったのだが、週末で疲れてしまったのだ)
小分けで500グラムにしようか迷いに迷ったが、結局1キロを購入。
今日は金曜なので明日のことも考えなくてはいけない。

1キロ氷を買うと半分を小分けにして冷凍室の片隅に保護してやる。
そうしないと麦茶を冷やすために勝手に使われたりするので、氷にも人権ならぬ、固有の権利が存在することの意義を暗に伝えるのである。

こうやって僕の「酒ライフ」が家族のなかで護られている訳だ。

これは僕の精神的安全性を護るための措置ともいうべきもの。
歴史上の「人権宣言」ならぬ、僕と黄金色のアルコールにとっての家族からの許可によって成り立つ「家内事業」のうちのひとつである(笑)
長い年月をかけ、少しずつ譲歩と権利の要求を繰り返し、獲得した権益なのである。

「これくらいはいいよねぇ~」

こんな情けないトーンで僕の権利は増幅を「許可」されてきた。
家庭内でもひとり酒を愉しめてしまう環境を妻が許してくれているのはありがたいことである。

さて、これから僕の貧困について語っていかねばならぬだろう。
それは次の機会に譲るとしよう。



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