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「好き」は生きしろに、鉱脈を掘り当てて


昨年の春、『余白を愛していきていく』というnoteを書いた。ありとあらゆる流れの中で忙殺されてはいるけれど、とはいえ私は「くらしを愛する」「好きというきもちを大切にする」ことを蔑ろにしたくないと思い続けている。

ここしばらくの記事でお察しの方もいるかもしれないが、薄暗い空白に押し込められるような感覚に見舞われていた。自分の人生では経験したことのないようなものを他人の人生を通してどかんと受け取った。考えても考えても答えなどないし、誰かを楽にすることもできず、悶々とした。私が苦しくなるのは本末転倒だと両足を踏ん張ったけれど、それで耐え切れるかというとそうでもなかった。

しかし結局、なんとかなっている。心が鍛えられたのも感じる。「強くなった」とも表現できるが、やっぱり『好き』に力を借りたおかげと思っている。音楽を、映画を、文学を、人を、空間を、『好き』だと思う気持ちが私をいつも逃してくれる。端っこに空いた隙間を通じてよろこびを吸い込み、満たすとまた走れるようになる。そういうエネルギーを、くらしの真ん中から補っている。

河合隼雄先生のことばに何度も胸がすく。頷くと同時に染み渡っていく。最近読んでいるのは『物語とたましい』。ベッドの右上に、お守りのように置いてある。

人間の心のエネルギーは、多くの「鉱脈」のなかに埋もれていて、新しい鉱脈を掘り当てると、これまでとは異なるエネルギーが供給されてくるようである。
このような新しい鉱脈を掘り当てることなく、「手持ち」のエネルギーだけに頼ろうとするときは、確かに、それを何かに使用すると、その分だけどこかで節約しなければならない、という感じになるようである。
(中略)
自分のなかの新しい鉱脈をうまく掘り当ててゆくと、人よりは相当に多く動いていても、それほど疲れるものではない。
河合隼雄;『物語とたましい』より

持っているものだけでやりくりをすると立ち行かなくなる、という感じ、すごくよくわかる。手元に揃えている見方、救い、知識、やさしさ、それではどうにも回らなくなり、結果としてより一層見える世界が狭くなる。

だから、「まだ知らない鉱脈」をさがして、エネルギーの補給先を増やす。音楽や、映画や、文学や、人や、空間がくれる潤いと同じように、私を励ましてくれるものを掘り起こし、触れていく。そういう作業を先延ばしにせずに続けていくことが、のびしろならぬ "生きしろ" になるのだと、私は今日も信じている。


私が大きな机なら、支える足の数は15本くらいだと思っている。一本一本の太さは違うけれど、どれかが欠けても立ち続けることができるくらいの出来にはなっている。エネルギーをくれる存在がそばにあること、本当にありがたいことだ。誰かの机の足に私自身が成り代わることはできなくとも、鉱脈を掘り当てるコツなら共有できるかもしれない。満たされた分、外側にも放出したい。また新しい週が始まる。

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