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余白を愛していきていく

木に咲く花を撮る習慣がある。土から生える可愛らしい花も愛おしいけれど、木は命そのものっぽいから好きなのだと思う。良い写真が撮れるわけでもないけれど、ときめくとすぐにiPhoneのカメラを起動してしまう。

陽の光を浴びて歩くとき、ぬるい向かい風に包まれる時、駅近くの階段を登るとき、私は日々を慈しんでいることを実感する。
先日「忙しそうな人をやっている」ということを書いたが、それもこれも、余白を愛しているからできるのだと今更気がつく。何かに夢中になれるからこそ取り巻く環境のやさしさに目を向けられるし、ただ生きる、といった生物としての自分があるからこそ、能動的に活動できるのだと思う。


ひさしぶりにお昼寝をした。
今日は休日で予定はなにもなく、正午手前に朝ごはんを食べて、そこから数時間後にはコンビニのお惣菜で胃袋をちょうどいい感じにした。通信大学の授業を受けようとPCを開いたものの、心の中に住んでいる何者かから午睡のお誘いが来た。実家にいるとソファですぐすやすやしてしまうのだけれど、自分の家にいるとやるべきことがぽんぽん頭に浮かぶので、日の高いうちにベッドに上がることはない。まどろみ自体がめずらしい。振り切って勉強することもできたけれど、眠ってみた。あっという間の2時間半、私の生活と絡み合った夢を伴って。

通っている子ども食堂にいる人たちがでてきた。普段よく乗る電車に乗っていた。見慣れない田舎、草原にあるペンションで、彼女たちと暮らしていた。不思議なくらい、当たり前の生活だった。明日から同じ生活を現実ですることになったとしても、何の違和感もないような世界だった。目が覚めて、ペンションの前の粉っぽい土の駐車スペースとか、妙に天井の高い部屋とか、濃い緑の森を抜けて子どもを迎えに行ったこととかを、未来に起きることのように想った。そして、いい眠りだったと薄暗くなった部屋で思った。


ただ眠る、というのは、私にとって余白で、癒し。空っぽの自分で布団の中にいると、追うことも追われることもなくそのまんまの私でいられる。そんなそのまんまの私の脳は、夢の中でもだれかとのつながりに豊かさを感じていた。人と人との結び目を、やっぱり私は愛しているのだなと思う。いくつでも結んでいきたい。どう結ぶのがいいか、お昼寝で元気になった現実の私はあれこれ思索している。

支援・サポート・手助けといった文脈で説明される活動も十二分に必要なのだけれど、私の望む携わり方とはそれほど広く重ならない。仕組みだけでは満たされない、心のすきまに目を向けたい。埋める必要があるすきまなら、一方的に補完するのではなく、一緒に新しいピースを探したい。その人らしさと私らしさが溶け合っていくように、「共に」を大切にできたらいい。

そう考えた時に、”余白”の必要性にたどり着く。くらしを業務のようにこなしていては見過ごしてしまうかもしれないものは山ほど。日々何を感じて、何に心を揺らされて、どんなふうに動いていくのか。ただの私として息をする瞬間をたっぷり用意しておくことには、やさしい意味があるのだ。映画や音楽を愛して、食べることを愛して、話すこと・書くことに喜びを得て、笑い上戸な自分で過ごすことをもっともっと楽しんでいたい。(今ができていない、というわけではない。むしろめちゃくちゃエンジョイしている)

よく聞く言葉でいえば、「抽斗を増やす」ということなのかもしれない。自分を最大限好きなように生きていくことで、誰かとの結び目を多く持てるようになりたい。というのが今の精いっぱいの気持ちのサマリー。


ただ満たされた休日だった。
名のわからない太い幹の木は、今年ももうすぐ実をつける。




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