長楽庵(ちょうらくあん)

「ソーシャルワーカー事務所 長楽庵(ちょうらくあん)」で活動しています。

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画用紙の仏壇 その12

保護室と呼ばれる部屋の中央に、四方を鉄柵で囲まれたベッドがある。榎本ゆきは深い寝息をたてて眠っていた。薄い掛け布団から出た手足には白い拘束帯が巻きついている。 入院したばかりのゆきは静かに休んでいた。翌日の明け方、彼女はとなりの病室のベッドに立って「亀がいた! 怖い! 怖い!」と悲鳴をあげた。驚いた患者たちが一斉に部屋から出て、病棟はしばらく騒然となった。その日を境に彼女は保護室にいる。 ゆきは、自分の腹の上に獰猛な亀がいたと言い張った。彼女にしか見えない亀は、尖った歯を

    • 画用紙の仏壇 その11

      一目で親子だとわかる顔立ちの男性ふたりが、大きな巻物を抱えて診察室に入ってきた。布団の端から生気のない女の顔が見える。ゆきの父が「榎本です」と頭を下げると、医師の今野は眉をひそめて言った。 「お父さん、これじゃ娘さんの診察ができません。布団の紐をほどきましょう」 「そんなことしたら暴れますよ」 「看護師がいるから大丈夫です。ご家族はそちらにおかけください」 医師は慣れた感じで二人に椅子を勧めた。外来の看護師の佐竹恵が「失礼します、ほどきますね」と優しい声で言った。 布団

      • 画用紙の仏壇 その10

        宇佐美は眼を見て相手のことを探る癖をもっている。白い結膜は血走ったり黄色く濁ったりして体の状態を教えてくれる。黒い角膜の虹彩や瞳孔には相手の意思が現れる。 「瞳で心を読めるなんて思い込みだ」と笑う人もいた。でも気になって仕方がない。とくに力が宿った黒い眼は人を支配すると信じている。 いまも漆黒に輝く兄の瞳は、宇佐美をカマキリに羽をむしられている蝶のような気分にさせた。 彼女はゆっくり目を閉じた。自分に襲いかかる冷たい眼差しから逃げたかった。代わりにゆきと父親のことを考え

        • 画用紙の仏壇 その9

          昼下がりの待合室には面会を待つ人がちらほらと座っていた。エアコンが低い音を立てている。暖かな風があたる長椅子に、うす汚れたTシャツを着た若い男が寝ていた。フガっといびきをかくたび、布袋さんのように膨らんだ腹がビクンと揺れた。 入口の自動ドアが開いて、白髪頭の男がゆっくりと入ってきた。往年のギャング映画に出てくる悪役のように、黒い縦縞の背広と真紅のネクタイをきつめに締めている。 男は長椅子に近づくと「いい大人が、なに寝てんだ」と言った。寝ている男はプウっと大きなおならで返事

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        • 画用紙の仏壇
          12本
        • ソーシャルワークのある生き方
          8本

        記事

          画用紙の仏壇 その8

           正午近く、香川と木島はデイケアセンターに戻ってきた。重い足取りで廊下を歩いていると、厚手のカーテンで閉めきられた部屋の中から、こぶしのきいたハリのある声が聞こえてきた。香川は急に立ち止まり「このせっかいからのう〜そつぎょうぅ〜」と、その歌を真似て口ずさむ。首をうなだれていた木島が、ゆっくりと顔を上げて呟いた。 「あれ、おこめちゃん? 尾崎豊が北島三郎みたいになってるけど」 「鉄男さん、何年も歌いこんでいるからな」 「可愛いワンピース着てね」  二人が顔を見あわせてニヤニ

          画用紙の仏壇 その7

           デイケアでは午前のプログラムが始まった。スタッフルームには詩織だけが残っている。窓の外にメンバーたちが小さな畑の雑草を抜いているのが見えた。みな押し黙って熱心に働いている。  榎本ゆきを探しに行く相談をしようと、詩織は主治医の橋本に何度も電話をかけていた。単調な呼び出し音を聞き続けるうちに、携帯電話を握る手がじわっと湿ってきた。昨日のことはもう気にしないとどれだけ自分に言い聞かせても、頭の中に橋本と激しく言い争ったカンファレンスの情景が浮かんでくる。  淡く白い午後の光

          画用紙の仏壇 その7

          画用紙の仏壇 その5

          「香川さん、そっちから見えます?」 そう言いながらデイケアスタッフの木島は、地面に膝をついて扉の鍵穴に片目を近づけた。となりで背の高い香川が、少しだけ開いている風呂場の窓から中を覗きこんでいる。くすんだ水色のタイルのほかは何も見えず湿ったカビの臭いが鼻をついた。 榎本ゆきのアパートは小さな工場の多い地域にあった。木製のパレットを積んだ運搬車が近くを走り過ぎていく。建物の片隅にある自販機のそばで、安全ヘルメットを被った作業員たちが缶コーヒーを片手に休んでいた。あたりには金属

          画用紙の仏壇 その5

          画用紙の仏壇 その4

          デイケアセンターでは、午前のプログラムが始まろうとしていた。 フロアのあちらこちらで、利用者がおしゃべりに花を咲かせている。髪をツインテールにした黄色いワンピース姿のひとりが話の輪に割りこんで「ゆきちゃんはきてる?」と尋ね歩いていた。 盛り上がっていた会話を遮られた利用者がムッとした顔で「おこめちゃん、ゆきちゃんじゃないでしょ。名前呼ぶときは、ゆきさん。年上でしょ」とたしなめた。 おこめちゃんと呼ばれたその人は、急に背筋を伸ばして相手を見下ろすと、ドスのきいた声で「じゃ

          画用紙の仏壇 その4

          画用紙の仏壇 はじまり〜忘れた男の夢

          気がつくと、あたりは白い霞に覆われていた。遠くの車のヘッドライトが人影を照らしている。 「この人は誰だろう?」とゆきは目を凝らした。 青い麻のジャケットにベージュのスラックスをあわせた軽やかな着こなしには、たしかに見覚えがある。顔を覆う暗闇の中から大きな肩と日焼けした浅黒い手だけが浮き上がっていた。 「昔、映画で観た俳優かしら、それとも古くからの知り合い?」とゆきはぼんやり考えてみた。 「遅かったな、ゆき子」と男が言った。 「ああ、この声。やっぱり私はこの人を知って

          画用紙の仏壇 はじまり〜忘れた男の夢

          画用紙の仏壇 その3

          相談室の扉を開けると、窓ガラスから光が室内を淡く照らしていた。明るい部屋の片隅で、室長の宇佐美がパソコンを睨んでいる。 宇佐美智子は大学の先輩で、詩織と同じゼミを取っていた。就職先を決めかねていたころ、ゼミの教授から「一度、宇佐美さんに話を聞いてみたら」と紹介され、この病院を訪ねた。 学生の自分に満面の笑顔で対応してくれる様子を見て、初めは明るく優しい人だと思った。しかし、就職してみてそれは間違いだとわかった。職場での宇佐美は口数が少なく、話すときは冷ややかにじっと相手の

          画用紙の仏壇 その3

          画用紙の仏壇 その2

          「歩いていた? どのあたり?」 「市役所の近くの交差点」 「ああ、駅の方ね。そりゃ、ゆきさんも用事があったんじゃないですか? 市役所に行ったのかもしれないし」 受話器の向こうからかすれた息づかいが聞こえた。 「うん。そうだね。そうかもしれない」 「角田さんはどうしてお電話くださったの? 何が気になったんですか?」 「うん。まあいい。じゃあね」 角田は詳しいことを何ひとつ語らずに電話を切った。 「聞き方が冷たかった?」と思ったが、榎本ゆきが歩いていただけでは何もわからな

          画用紙の仏壇 その一

          遠くから夕焼け小焼けのメロディーが聞こえてきた。6階の窓から外を見ると、濃紺の空を背景にして遠くの建物の窓からオレンジ色の灯りがもれている。いつの間にか日暮れが早くなった。ひんやりとした空気が足元から流れてくる。 大沢詩織は、病棟の扉の鍵を開けて廊下に出た。鍵をかけようと振り返ると、中から林が近づいてきた。 「大沢さん、僕も一緒に下に降りるよ」 看護師長の林敏郎は、すっと息を吸って大きな腹を引っ込め、扉を開けて待つ詩織の脇を強引に通り抜けた。詩織が鍵をかけると、今度は林

          【第七話】過去から襲ってくる恐さに打ち克つ

          「ひとりで不動産屋さんに入れるくらいなら、とっくにそうしています。でも、どうしてもダメなんです」 彼は言いづらそうに、でもいつもより大きな声で告白しました。 人々が行き交う商業施設の休憩スペースに、私たちは二人で座っていました。いくつかの不動産屋をまわって候補になる物件はあったものの、彼は私にその後も付き添ってもらいたいと思っていたようです。50代にもなって家を借りる話すら満足にできないと、彼は自分に苛立ち、自分を恥じていました。 拘置所から出てきた当日の戸惑いに始まり

          【第七話】過去から襲ってくる恐さに打ち克つ

          【第六話】社会に戻ってやり直す本人の声を裁判で聞きたい

          「こんな思いをするくらいだったら、もう戻りたい。あそこにいたほうが、ずっとよかった」 私の目の前には、まるで幼い子どものように泣きじゃくる50代の男性がいました。彼はつい先ほど拘置所から出てきたばかりで、自分の置かれた状況をまだ受け入れられないようでした。 その日の食べものを買うお金も節約しながら、生活を立て直さないといけない時期がある。拘置所で私とそんな話をしていたとはいえ、公的な支援につながるまでの不安定な生活が始まりました。彼は拘束された場所から出てくるまで、自分の

          【第六話】社会に戻ってやり直す本人の声を裁判で聞きたい

          【第四話】人生に添っていなければ何の手伝いにもならない

          「つまらない……」とその人はよく言っていました。 はじめて福祉施設で会ったとき、彼は部屋の片隅で計算ドリルをやっていました。感情をほとんど表に出さず、何かを我慢するように黙々と解答の数字を書き込んでいました。それが当時の日課になっていたようです。 彼のうんざりした様子は、福祉施設で働きはじめたばかりの私の心に深く刻まれました。まだ30代前半の彼が、生気を失ってまるで枯れ果てたかのような姿に見えました。そのやりきれない雰囲気の裏には何があるのだろうと思ったのです。 彼は2

          【第四話】人生に添っていなければ何の手伝いにもならない

          【第五話】気づかないうちに人権を侵害する側にいた

          「お父さん、お母さんとまた選挙に行きたいです」 裁判の終わりを迎え、裁判官から発言を求められた名児耶匠(なごやたくみ)さんは、はっきりとそう言いました。 堂々としたその姿を、私は傍聴席から見ていました。匠さんの作り出す凜とした雰囲気は法廷を包み込み、自分の気持ちはこうなのだと、その場にいるすべての人に強く語りかけるようでした。 裁判を傍聴しながら、私はこんなことを考えていました。 「選挙権を奪われてもしかたがないなんて、誰が決めたのだろう。そうか、公職選挙法に欠格事由

          【第五話】気づかないうちに人権を侵害する側にいた