長楽庵(ちょうらくあん)

「ソーシャルワーカー事務所 長楽庵(ちょうらくあん)」で活動しています。

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画用紙の仏壇 その6

「ねえ、さっきからどこの電話が鳴っているんだろう」 「診察室から聞こえるよね、橋本先生いないのかな?」 「いやいや。先生はさっき部屋にいたよ。なんで出ないんだろうね」 夜勤明けの看護師は申し送りを終えて診察室の方を睨んだ。 朝食が終わったフロアには患者たちが一列に並んでいた。順番に名乗っては薬を受けとり、湯呑みに白湯をもらって飲んでいる。その後ろでスタッフが台拭きをワイパーのように左右に動かしながらテーブルを拭いていた。突っ伏して寝ている患者が行く手をさえぎっても慣れた身

    • 画用紙の仏壇 その5

      「香川さん、そっちから見えます?」 そう言いながらデイケアスタッフの木島は、地面に膝をついて扉の鍵穴に片目を近づけた。となりで背の高い香川が、少しだけ開いている風呂場の窓から中を覗きこんでいる。くすんだ水色のタイルのほかは何も見えず湿ったカビの臭いが鼻をついた。 榎本ゆきのアパートは小さな工場の多い地域にあった。木製のパレットを積んだ運搬車が近くを走り過ぎていく。建物の片隅にある自販機のそばで、安全ヘルメットを被った作業員たちが缶コーヒーを片手に休んでいた。あたりには金属

      • 画用紙の仏壇 その4

        デイケアセンターでは、午前のプログラムが始まろうとしていた。 フロアのあちらこちらで、利用者がおしゃべりに花を咲かせている。髪をツインテールにした黄色いワンピース姿のひとりが話の輪に割りこんで「ゆきちゃんはきてる?」と尋ね歩いていた。 盛り上がっていた会話を遮られた利用者がムッとした顔で「おこめちゃん、ゆきちゃんじゃないでしょ。名前呼ぶときは、ゆきさん。年上でしょ」とたしなめた。 おこめちゃんと呼ばれたその人は、急に背筋を伸ばして相手を見下ろすと、ドスのきいた声で「じゃ

        • 画用紙の仏壇 はじまり〜忘れた男の夢

          気がつくと、あたりは白い霞に覆われていた。遠くの車のヘッドライトが人影を照らしている。 「この人は誰だろう?」とゆきは目を凝らした。 青い麻のジャケットにベージュのスラックスをあわせた軽やかな着こなしには、たしかに見覚えがある。顔を覆う暗闇の中から大きな肩と日焼けした浅黒い手だけが浮き上がっていた。 「昔、映画で観た俳優かしら、それとも古くからの知り合い?」とゆきはぼんやり考えてみた。 「遅かったな、ゆき子」と男が言った。 「ああ、この声。やっぱり私はこの人を知って

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        • 画用紙の仏壇
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        • ソーシャルワークのある生き方
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          画用紙の仏壇 その3

          相談室の扉を開けると、窓ガラスから光が室内を淡く照らしていた。明るい部屋の片隅で、室長の宇佐美がパソコンを睨んでいる。 宇佐美智子は大学の先輩で、詩織と同じゼミを取っていた。就職先を決めかねていたころ、ゼミの教授から「一度、宇佐美さんに話を聞いてみたら」と紹介され、この病院を訪ねた。 学生の自分に満面の笑顔で対応してくれる様子を見て、初めは明るく優しい人だと思った。しかし、就職してみてそれは間違いだとわかった。職場での宇佐美は口数が少なく、話すときは冷ややかにじっと相手の

          画用紙の仏壇 その2

          「歩いていた? どのあたり?」 「市役所の近くの交差点」 「ああ、駅の方ね。そりゃ、ゆきさんも用事があったんじゃないですか? 市役所に行ったのかもしれないし」 受話器の向こうからかすれた息づかいが聞こえた。 「うん。そうだね。そうかもしれない」 「角田さんはどうしてお電話くださったの? 何が気になったんですか?」 「うん。まあいい。じゃあね」 角田は詳しいことを何ひとつ語らずに電話を切った。 「聞き方が冷たかった?」と思ったが、榎本ゆきが歩いていただけでは何もわからな

          画用紙の仏壇 その一

          遠くから夕焼け小焼けのメロディーが聞こえてきた。6階の窓から外を見ると、濃紺の空を背景にして遠くの建物の窓からオレンジ色の灯りがもれている。いつの間にか日暮れが早くなった。ひんやりとした空気が足元から流れてくる。 大沢詩織は、病棟の扉の鍵を開けて廊下に出た。鍵をかけようと振り返ると、中から林が近づいてきた。 「大沢さん、僕も一緒に下に降りるよ」 看護師長の林敏郎は、すっと息を吸って大きな腹を引っ込め、扉を開けて待つ詩織の脇を強引に通り抜けた。詩織が鍵をかけると、今度は林

          【第七話】過去から襲ってくる恐さに打ち克つ

          「ひとりで不動産屋さんに入れるくらいなら、とっくにそうしています。でも、どうしてもダメなんです」 彼は言いづらそうに、でもいつもより大きな声で告白しました。 人々が行き交う商業施設の休憩スペースに、私たちは二人で座っていました。いくつかの不動産屋をまわって候補になる物件はあったものの、彼は私にその後も付き添ってもらいたいと思っていたようです。50代にもなって家を借りる話すら満足にできないと、彼は自分に苛立ち、自分を恥じていました。 拘置所から出てきた当日の戸惑いに始まり

          【第七話】過去から襲ってくる恐さに打ち克つ

          【第六話】社会に戻ってやり直す本人の声を裁判で聞きたい

          「こんな思いをするくらいだったら、もう戻りたい。あそこにいたほうが、ずっとよかった」 私の目の前には、まるで幼い子どものように泣きじゃくる50代の男性がいました。彼はつい先ほど拘置所から出てきたばかりで、自分の置かれた状況をまだ受け入れられないようでした。 その日の食べものを買うお金も節約しながら、生活を立て直さないといけない時期がある。拘置所で私とそんな話をしていたとはいえ、公的な支援につながるまでの不安定な生活が始まりました。彼は拘束された場所から出てくるまで、自分の

          【第六話】社会に戻ってやり直す本人の声を裁判で聞きたい

          【第四話】人生に添っていなければ何の手伝いにもならない

          「つまらない……」とその人はよく言っていました。 はじめて福祉施設で会ったとき、彼は部屋の片隅で計算ドリルをやっていました。感情をほとんど表に出さず、何かを我慢するように黙々と解答の数字を書き込んでいました。それが当時の日課になっていたようです。 彼のうんざりした様子は、福祉施設で働きはじめたばかりの私の心に深く刻まれました。まだ30代前半の彼が、生気を失ってまるで枯れ果てたかのような姿に見えました。そのやりきれない雰囲気の裏には何があるのだろうと思ったのです。 彼は2

          【第四話】人生に添っていなければ何の手伝いにもならない

          【第五話】気づかないうちに人権を侵害する側にいた

          「お父さん、お母さんとまた選挙に行きたいです」 裁判の終わりを迎え、裁判官から発言を求められた名児耶匠(なごやたくみ)さんは、はっきりとそう言いました。 堂々としたその姿を、私は傍聴席から見ていました。匠さんの作り出す凜とした雰囲気は法廷を包み込み、自分の気持ちはこうなのだと、その場にいるすべての人に強く語りかけるようでした。 裁判を傍聴しながら、私はこんなことを考えていました。 「選挙権を奪われてもしかたがないなんて、誰が決めたのだろう。そうか、公職選挙法に欠格事由

          【第五話】気づかないうちに人権を侵害する側にいた

          【第三話】いまの社会があるのは開拓した人がいたから

          私は車椅子を使う人と街に出かけたことで、初めて「社会」という存在を意識しました。1990年代のことです。 当時、大学生の私は、障害のある人が暮らすグループホームというところで泊まりのアルバイトをしていました。そこは福祉施設といった外見ではなく、住宅街にあるふつうの一戸建てでした。 グループホームに住む男性の外出に、付き添ったときのことです。その道のりで、私一人ではけっして経験しないことに遭遇しました。 駅に着いて、窓口で駅員に車椅子の乗客が電車に乗ることを伝えました。乗

          【第三話】いまの社会があるのは開拓した人がいたから

          【第二話】相手が感じていることを想像する

          「急停車します。ご注意ください」と車内アナウンスが流れました。 電車は速度を落として、止まります。車内では安全確認をしていると車掌が説明しているところでした。 私はつり革につかまって、ドアのそばに立つ青年を見つめていました。彼が耳をふさいで小さく飛び跳ねていたからです。 「急停車、急停車」と彼は繰り返しています。一人のようでしたが、まるで誰かと言い合いをしているように声量が大きくなっていきました。 私は思わず声をかけました。 「大丈夫ですよ。すぐ電車は動くから安心して」

          【第二話】相手が感じていることを想像する

          【第一話】依頼者の人生は依頼者が決める

          福祉施設で働いていたときのことです。車椅子に座る彼女は、 「切らないで。そのまま食べたい」 と言いました。私はこの日、彼女のとなりで昼食の手伝いをしていました。噛んで飲み込むときに窒息しないように、おかずを小さく切り分けていたのです。 透明なアクリル板に書かれた五十音のひらがなを目で追って「き・ら・な・い・で……」と言ったあと、私をじっと見つめました。 彼女がそれを嫌がっているのは、私にもわかっていました。彼女は家でおかずを切らずに食べていて、以前から、福祉施設で同じ

          【第一話】依頼者の人生は依頼者が決める

          【はじめに】ソーシャルワークは「その人らしい生活」を守るための活動

          「こちらのタブレットにお客様の情報をご入力いただき、しばらくお待ちください」 ある依頼者の銀行口座の開設に同行したときのことです。受付の人からこう言われると、彼はタブレットPCをじっと見つめ、何も言わないまま私のほうに振り向きました。この人はいままで機器の操作をしたことがありませんでした。 私は福祉分野の対人援助職で、いわゆるソーシャルワーカーをしています。となりの席で彼を手伝いながら、銀行口座の開設でさえも大きな壁があると思い知りました。 携帯電話をもっていなくて連絡

          【はじめに】ソーシャルワークは「その人らしい生活」を守るための活動