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画用紙の仏壇 その5

「香川さん、そっちから見えます?」

そう言いながらデイケアスタッフの木島は、地面に膝をついて扉の鍵穴に片目を近づけた。となりで背の高い香川が、少しだけ開いている風呂場の窓から中を覗きこんでいる。くすんだ水色のタイルのほかは何も見えず湿ったカビの臭いが鼻をついた。

榎本ゆきのアパートは小さな工場の多い地域にあった。木製のパレットを積んだ運搬車が近くを走り過ぎていく。建物の片隅にある自販機のそばで、安全ヘルメットを被った作業員たちが缶コーヒーを片手に休んでいた。あたりには金属を削る音や一定のリズムで硬いものを打つ音が響いている。

桜井の指示でデイケアを飛び出してきたものの、工場のほかに目印のない一帯で、ポツンと一軒だけ建つアパートを見つけるのは容易ではない。40分ほど歩きまわって二人はようやくゆきの部屋にたどり着いた。木島が呼び鈴を鳴らしても反応はなかった。

「あー何も見えね! 木島、今度は向こう側に回ってみようや」

香川は郵便ポストから中の様子を見ようと頑張っている木島に声をかけた。アパートの一階に並ぶ3つの部屋のうち真ん中がゆきの部屋だった。二人は扉の前を離れ、小さな庭に面した掃き出し窓のほうに向かった。

左右の部屋の窓は厚めのカーテンで塞がれていたが、ゆきの部屋には中が透けて見えそうなレースのカーテンがかかっていた。香川と木島はそれぞれ窓ガラスに顔を寄せて目を凝らした。

「ねえ、香川さん何か見える?」
「いんや、なんも見えねえな」
「見えないよねえ、部屋に誰もいないよね」
「がんばれ、木島、覗け、覗くんだ」
「もう! 無理!」

しびれを切らした木島が声を上げた。「いない! 人はいない」とせっかちに繰り返す。

「だいたいさ、ちょっと出かけているだけか、旅行に行ってるだけかもしれないじゃん。なんで桜井さんはデイケアに連絡がないとあわてるわけ? あたし前の職場で、こんなに突撃で訪問しなかったよ」
「まあまあ」
「まあまあって言うけど、この3か月のあいだに何回、連絡がつかない人を訪問したと思う? 4回行ったんだから。ほとんど寝坊とか遊びに行って連絡するのを忘れてましたとか言われて。あたしたちの半日がつぶされんのよ!」
「時間を取られたって、みんな生きていたんだからよかったじゃないか」

香川は少し離れた場所で大きく伸びをした。ブロック塀の上から赤茶色の猫が大きな目でこちらを見ている。

「お、でっけえ。たぬきみたい」と声をかけると、猫が返事をするように「ナー」と低い声で鳴いた。重たそうな体をゆさゆさ揺らしながら近づいてくる。黙って眺めていると、ゆきの部屋の前でぐるぐると回り始めた。

「な、なに? この猫、あたし嫌いなんだけど」と木島は別の部屋のほうに逃げた。

大きな掃き出し窓の下には古びた陶器の椀が置いてあった。赤茶色の猫はびちゃびちゃと音をたてて中の水を飲んでいる。

「たぬき猫、お前、ゆきさんちの猫か?」と香川が言った。

そのとき頭上から「違うよ、みんなの猫。たっちゃんだよ!」と子どもの声がした。

あわてて見上げると2階のベランダに小さな女の子がしゃがんでいる。

不意に自分の名前を呼ばれた猫が「ナー」と鳴いた。香川が人差し指を向けると鼻を近づけてスンスンと嗅ぐ。「お前、ニャアって鳴かないんだな」とそのまま背中を撫でても逃げようとしない。

「みんなで猫のたっちゃんを飼っているの?」
「そうだよ、おばちゃんでしょ、工場のおじちゃんとミナもご飯あげるよ」
「ミナちゃんて君のこと? おばちゃんって、この部屋のおばちゃん?」
「うん、たっちゃんのご飯はおばちゃんが一番あげてるよ。おじさんは誰? おばちゃんの知り合い?」

ミナと名乗る少女は不審そうに香川を見た。ボサボサのおかっぱ頭で大人用のTシャツを着ている。

香川は、少女を恐がらせないように病院から来たとは言わなかった。「そう、知り合い。おばちゃんに会いにきたんだ。お留守みたいなんだよね。どこに行ったんだろうなあ」と笑顔で答えた。

「おかしいなあ、たっちゃんの朝ご飯はおばちゃん忘れないのに。ねえ、ママ!」と大声で言いながら少女は部屋の中に入った。その隙に、離れていた木島が「このままだと、あたしたちが怪しまれる! 行きましょう」と香川を急き立てた。

帰宅したら連絡するようにと書いたメモを郵便ポストに入れて二人はアパートを後にした。

運転する木島が急に「さっきの女の子、この時間に家にいるっておかしくない?」と言った。

「そうだな、普通は学校にいる時間だね」
「学校に行かないのか、行けないのか。不登校かな」
「まあ、ゆきさんとは仲がいいんだな。猫ともだち」
「なにそれ、もう早く課長に電話してさ、次にどうすりゃいいのか聞いて」

香川はデイケアの桜井に電話をかけた。

これから相談室の大沢と藤田もゆきさんを探すって」
「えーそうなの? じゃ、あたしたちも帰れないのか」
「まあ、少しこのあたりを走ってみようや」
「香川さん、あたし運転は嫌だから交代して」
「はいはい」

道の両側に広い駐車場を構えた讃岐うどん屋や焼肉屋が並んでいる。フロントガラス越しに流れる賑やかな景色を見ながら香川と木島は長い一日を覚悟した。


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