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画用紙の仏壇 その2

「歩いていた? どのあたり?」
「市役所の近くの交差点」
「ああ、駅の方ね。そりゃ、ゆきさんも用事があったんじゃないですか? 市役所に行ったのかもしれないし」

受話器の向こうからかすれた息づかいが聞こえた。

「うん。そうだね。そうかもしれない」
「角田さんはどうしてお電話くださったの? 何が気になったんですか?」
「うん。まあいい。じゃあね」

角田は詳しいことを何ひとつ語らずに電話を切った。

「聞き方が冷たかった?」と思ったが、榎本ゆきが歩いていただけでは何もわからない。詩織はノートに角田の名前と電話の時刻を書き、頬杖をついた。知らない病名や言葉なら、目の前に並ぶ精神医学の事典や国語辞典で調べられる。しかし、角田が何を言おうとしたのか手がかりもなく、まるで見当がつかなかった。

席を立って机の上の白いマグカップを取った。電気ポットのスイッチを入れて、インスタントコーヒーのふたを開けたとき、詩織はハッと我に返って相談室を出た。

誰もいない診察室の蛍光灯をつけると、詩織は奥にあるカルテの保管室に入った。中には天井まで届く可動式の本棚がいくつも並び、古い紙の匂いがこもっていた。詩織は厚みのある一冊のカルテを両手で引っ張り出した。「榎本ゆき」と書かれた表紙は薄茶色に変色していた。

外来の看護師たちが使う椅子に座ってページをめくった。4日前に「眠れている。困ることはとくにない。変わりなし」と大きな文字で記されていた。そこから診療録、検査のデータ、デイケアの報告書と続き、最後に詩織が書いた訪問の記録があった。

先週、訪問したときに、ゆきは「毎日デイケアに通っている。革工芸や陶芸を始めようかと思う。最近、メンバーに若者が増えて、私と同じくらいの歳の人がいない」と答えていた。デイケアの様子を読むと「ソファで昼寝していることが多い。トラブルなし」とある。

「あ、部屋の電気がついたまんまじゃない! 誰かいるのー?」

うしろから外来の看護師の佐竹恵の声がした。

「保管室にいまーす。大沢でーす」
「また、あんた残っているの? 早く帰んなよ」

パステルピンクのセーターに、黒いミニスカートとピンヒールのロングブーツを合わせた恵が現れた。

「メグちゃん、今日は気合いの入った格好だね。どこか行くの?」
「しおりんも来る? いま、麗子ちゃん待ち。これから飲みに行くよ」
「麗子師長、まだ帰ってこないんだ?」
「どこで油を売ってるんだか。早くしないとさ、ハッピーアワーが終わるっつーの」

外来には毎日100人くらいの患者が通う。太陽が昇り始めるころから、薄暗い玄関で待つ者もいる。空が明るくなって職員を乗せた病院のバスが到着すると、待ちくたびれた患者たちは、降りる人の中から見知った顔を探す。恵の姿を見つけると「メグちゃん、早く開けてー」「今日もべっぴんだよ、開けてー」と大声で囃し立てる。

「はいはい、みなさん、お静かに。外来が開くまで待っててくださ
ーい」

恵はいつも満面の笑顔で返事をする。

「お待たせ。メグちゃん」
「遅いよ! 麗子ちゃん、すごい待ったんだけど」

胸元まで大きく開いた白いシャツにジーンズ姿の神田麗子が入ってきた。外来のベテラン師長が恵と同世代のように見える。

職員から「佐竹は派手好き。神田は若づくり。看護師のくせに目立ちだがり」と陰口をたたかれても、二人はまったく気にしない。酒好きで毎晩のように飲み歩いている。

「ごめんねメグちゃん。更衣室で敏郎君とばったり会って、飲みに誘っていたの」
「え、林師長もくるの? それはアタシ嫌だからね」
「どうして? 敏郎君が一緒にいてもいいじゃない」
「林師長と麗子ちゃんとアタシが並んだら、絶対、極道と妻と愛人に見えるって!」

詩織は思わず吹き出した。看護師の世界は上下の関係が厳しそうなのに、二人はいつも友達のように話す。

「詩織ちゃん、残って何か調べてるの?」

詩織は麗子に角田とのやり取りを話した。

「それは何かあるね。アタシも気になる」
「角田さんは、けっこうまわりを観察している人だからね」

恵と麗子が顔を見合わせてうなづいた。

「でも、カルテには変わったところがないんです」

詩織がそう言うと、腕組みした麗子が指先でおくれ毛をからめ回しながら答えた。

「うーん、榎本さんは変わった様子はなかったと思うけどお」
「待って、麗子ちゃん。4日前って受付で大声出してた人がいたじゃない。遅いとか、お金返せとか言ってさ」
「そうだ、メグちゃんがその人をなだめてて、他の看護師は忙しかったのよね。ごめんね、詩織ちゃん。私、まったく覚えてない」

詩織は二人を見送り、診察室の戸締りをして帰った。

翌朝、受付で事務員と話していた麗子が駆け寄ってきた。

「昨日ね、駅前で榎本さんを見たのよ」
「え、何時ごろですか」
「うーん、一軒目を出て、二軒目を探しているときだったから、10時過ぎ」
「誰かと一緒でした?」
「ううん、一人でフワーっと歩いてたよ。夢遊病の人みたいだった」

診察室から「師長、どこですか〜」と恵の甲高い声が聞こえた。
「あ、いけない! 申し送りしなきゃ」と早口に言うと、麗子は小走りに戻っていった。

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