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画用紙の仏壇 その10

宇佐美は眼を見て相手のことを探る癖をもっている。白い結膜は血走ったり黄色く濁ったりして体の状態を教えてくれる。黒い角膜の虹彩や瞳孔には相手の意思が現れる。

「瞳で心を読めるなんて思い込みだ」と笑う人もいた。でも気になって仕方がない。とくに力が宿った黒い眼は人を支配すると信じている。

いまも漆黒に輝く兄の瞳は、宇佐美をカマキリに羽をむしられている蝶のような気分にさせた。

彼女はゆっくり目を閉じた。自分に襲いかかる冷たい眼差しから逃げたかった。代わりにゆきと父親のことを考えた。

ゆきは十代のころ男性と駆け落ちをした。二十数年が過ぎ、彼女はフラッと戻ってきた。榎本家の人たちは「いままで、何をしていたのか?」と問いただした。繰り返し聞いてもあちこちに話題が飛んで要領をえない。家族は腹立たしさを抑えてあきれるしかなかった。

しばらくして、ゆきは家族の知らぬ間に街を彷徨うようになった。

ある日、地元の交番にいるベテランの警官が家にやってきた。そのうしろで、若い巡査がゆきの腕をグッと掴んでいる。父は事態を飲み込めずに表情のない顔で立ち尽くしていた。

「どうも…実はおたくの娘さんを保護したんです。知らない女からつけ回されてるって通報が入ったもんで、行ってみたら娘さんがいましてね…」
「え? ゆきが? いやあ、それは誰かと勘違いなさったんじゃないですか? うちの娘はそんなことはしないですよ」
「残念ながら…そうなんです」

昔から、父はこの警官と地区の防犯パトロールで付き合いがあった。子どものことを話したことがなかったし、できれば家出していた娘の存在は知らないでいてほしいのが本音だった。

「ちなみに娘さんはどこか医者にかかっていますか?」
「医者って、そんな…うちの娘が具合悪いなんて聞いたことないですから」

警官はオドオドと歯切れの悪い父から視線を逸らした。うしろにいる二人の様子を伺って、今度は低くボソボソと話しだした。

「娘さんはすこし情緒が不安定のようでしてね。一度、診てもらったほうがいいんじゃないでしょうか」
「あなた! うちの子がおかしいっていうんですか? いくらお巡りさんだって言い過ぎでしょう!」

気まずい上に聞きとりづらさが重なり、父はうわずった声で言い返した。

ゆきは若い巡査に掴まれた腕を必死に振りほどこうとしている。身をよじらせても逃げられない。彼女は堪えきれずに大きな声をあげた。

「離せよ! せっかくタッちゃんを見つけたのに邪魔しやがって!」
「タッちゃんって誰ですか? あの男性はあなたのこと知らないそうですよ」
「タツオはあたしのダンナ! いいから離せよ! このクソガキ!」
「さっきも言ったけど、そういう態度はよくないでしょ?」
「あたしのダンナはねえデッカイ組織の幹部! あんたなんてクビだよ! クビ! 総理大臣に電話したら一発だよ!」
「あなた、かなりお疲れだからね。今日は静かにおうちで休めるかな?」
「なんだよ! バカにしやがって、こんなうち知らないよ! あたしんちは神戸なんだから! もう! 離せって言ってんだろ!」

父は愕然とした。目の前で汚い言葉でわめき散らす女を自分の娘とは思いたくなかった。うしろで、ゆきの母親がすすり泣いている。

次の日、宇佐美は諸田メンタルホスピタルで、布団で簀巻きにしたゆきを担いだ父と兄に出会った。


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