画用紙の仏壇 その3
相談室の扉を開けると、窓ガラスから光が室内を淡く照らしていた。明るい部屋の片隅で、室長の宇佐美がパソコンを睨んでいる。
宇佐美智子は大学の先輩で、詩織と同じゼミを取っていた。就職先を決めかねていたころ、ゼミの教授から「一度、宇佐美さんに話を聞いてみたら」と紹介され、この病院を訪ねた。
学生の自分に満面の笑顔で対応してくれる様子を見て、初めは明るく優しい人だと思った。しかし、就職してみてそれは間違いだとわかった。職場での宇佐美は口数が少なく、話すときは冷ややかにじっと相手の目を見つめる。目鼻立ちのはっきりした顔から放たれるその眼差しに耐えられる人間だけが、この相談室で働いている。
詩織は机の上にカバンを置くと、まっすぐ宇佐美の元に行った。
「室長、朝からすみません。報告があります」
宇佐美は猫背のままジロリと詩織を見上げた。
新人のころは、その視線に体が硬くなったが、宇佐美の人柄を知るにつれ慣れてしまった。機嫌の良し悪しは関係がなく、本人が必要と思わなければ感情を表さないのだ。
詩織は、角田と麗子から聞いた榎本ゆきの話をした。
宇佐美は両手で顔を洗うようにこすった。そのまま、まぶたの周りをゆっくり回しながら「それが一体なんなの」とつぶやいた。
「いや、わからないんですけど。もやもやするというか、気になって」
「大沢さん、どうしてそう思うの」
「角田さんが、遅い時間に電話してくるのは初めてなんです。それに、他の患者さんの話も滅多にしません。麗子師長がみた榎本さんの様子もふだんとは違う気がします。何が問題って上手く言えないんですけど」
宇佐美の問いかけに早口で答えているうち、詩織の頭に「異変」の二文字がポンと浮かんだ。
月に一度、ゆきのアパートを訪ね1時間くらい話をする。当たりさわりのない会話の裏に「静かなのはうわべだけ」と感じさせる何かがあった。見た目は山奥の沼のように静かだけれど、奥底には獰猛な外来種の亀が隠れている。これまでは、ワーカーとして未熟な自分には、まだ彼女の内面にある何かを聞き出せないのだと考えていた。しかし今は「ちがう、私の問題じゃない。ゆきさんの問題だ」とはっきりとわかった。
「今まで意識していなかったんですけど、榎本さんは危うい人だと思います。」
「うん」
「自分の本当の気持ちを誰にも見せない、誰にも入ってきてほしくない。ふだんは、それで穏やかに過ごせていたのに、何かが起きたんじゃないかと」
「大沢さんは感じた」
「そうです」
宇佐美は、詩織の顔を見つめて「じゃ、デイケア行ってきな」と言った。
「え、いま?」
「そうよ、とっとと行け。それから藤田、あんたも一緒に行って」
少し離れたところで雑巾がけをしていた藤田翔が急に名前を呼ばれて振り向いた。
「なぜ、僕が? 榎本さんの担当ではないのに?」と大声を上げたが、上司の一瞥を受けてすぐに態度を変えた。「雑巾、洗ってきます」とふてくされた顔で部屋を出ていった。入職2年目の藤田は宇佐美の視線に耐える力が弱い。
デイケアセンターは詩織たちのいる棟からかなり離れていた。玄関から外に出て院内の敷地にある小さなテニスコートを通り過ぎた先の雑木林の中にひっそりと建っている。
小径の一面に落ちた枯れ葉を踏みしめるたびにカサカサと乾いた音がする。
「ごめんね、藤田。付き合わせちゃって」
「いやいや、いっすよ」
藤田がいうには、今朝、相談室にはコーヒーの香りがうっすら漂っていた。テーブルの上にマグカップと蓋が開いたままのインスタントコーヒーの瓶があり「ああ、また大沢さんは忘れて帰ったな」と片付けたのだった。
「先輩は、ちょいちょい周りが見えなくなるとか言われませんか」
「うーん、そんなことないよ」
「いやあ、言われていると思うけどなあ。先輩はね、一つのことを考え出すと他が止まるんですよ。だからね、僕が言いたいのはですね」
詩織は走りだした。藤田は喋りだすと止まらない。後を追いかけながらまだ「言われていると思うんすよ〜」と叫んでいる。すれ違う患者たちが眉をひそめて薄笑いしていた。
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