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【第六話】社会に戻ってやり直す本人の声を裁判で聞きたい

「こんな思いをするくらいだったら、もう戻りたい。あそこにいたほうが、ずっとよかった」

私の目の前には、まるで幼い子どものように泣きじゃくる50代の男性がいました。彼はつい先ほど拘置所から出てきたばかりで、自分の置かれた状況をまだ受け入れられないようでした。

その日の食べものを買うお金も節約しながら、生活を立て直さないといけない時期がある。拘置所で私とそんな話をしていたとはいえ、公的な支援につながるまでの不安定な生活が始まりました。彼は拘束された場所から出てくるまで、自分の生活がどうなるかを具体的に想像できなかったのだと思います。

この日の裁判で、彼は執行猶予付きの懲役刑を受けました。私は裁判のあと、釈放される場所まで彼を迎えに行き、安く泊まれる宿泊所まで同行しました。もうすっかり夜もふけたころ、突然、堰を切ったように彼が泣き出してしまったのです。

私は「この状況なら、不安になるのも無理はない」と思い、彼が落ち着くのをただ黙って待ちました。しばらくすると「すみませんでした」と言って、恥ずかしそうに彼はうつむきました。

「明日は予定どおり、役所と不動産屋さんに行きましょう。そのときにまた、お気持ちをうかがいます」
私がこのように言うと、彼は将来についての悲惨な想像を振り払うように、無言でうなずきました。

翌日にまた会う約束をして、その日は別れました。帰る途中、駅に向かっていると、ひとりの高齢者が私の前をとぼとぼと歩いています。そこは、かつてドヤ街と呼ばれていたところでした。

明らかに老いだけが原因ではないとわかるほど、おぼつかない足取りでゆっくりと歩くその人を見て「支援を受けているのだろうか」と私は反射的に思いました。しかし、失礼な決めつけだとすぐに考え直しました。私が知らないだけで、もしかしたら、その人は有名な建物を造り上げた職人さんだったのかもしれません。一歩一歩、また一歩ずつ進むドヤ街の老翁を追い越しながら、私はこの街で生き抜いてきた人たちの人生に思いを馳せました。

裁判が行われているあいだ、彼はずっと拘置所で身柄を拘束されていました。判決で執行猶予がつくと、その日に釈放されます。以前にも、着の身着のままで拘置所から出てきて、最寄り駅の方角すらわからずに立ちつくす人を見たことがあります。私は「呆然として途方にくれている人は、これから一体どうするのだろう」とつい思ってしまいます。

その日に泊まる場所もなく困るのは、けっして彼だけではありません。社会に戻ってきたあとは、自力で生活を立て直していかなければなりません。ふつうに暮らしている人から見れば、あまりにもあたりまえのことです。しかも罪を犯したのなら、大なり小なり苦労をするのが当然の報いと感じる人もいるでしょう。

しかし、彼が思わず、拘置所に「戻りたい」と口にしたように、ゼロからやり直す過程には、私たちの想像を超えるほどたくさんの困難が待ち受けているのです。

もしあなたが裁判員裁判の裁判員として、生まれて初めて刑事裁判に出たら、目の前にいる被告人をみてこう思うかもしれません。

「この人はまた同じように犯罪を繰り返さないだろうか?」

彼の裁判で情状証人にたった私は、これとまったく同じことを聞かれました。検察官をはじめ、一般市民である裁判員や、司法の専門家である裁判官も申し合わせたようにこんな尋問を私にするのです。

「福祉のサポートでたしかに再犯を防げますか。ほんとうにそれだけで十分ですか?」

被告人席に座った彼を見ると、いまにも消え入りそうな表情でうなだれています。私は「彼には顔をあげて聞いていてほしい」と心でつぶやきながら、生活をゼロからつくっていく具体的な計画と身内や専門家の協力者を挙げていきました。

ただ、私がもっとも証言したい内容には触れませんでした。

「これは彼と相談してきた内容で、本当は、これから生きていく彼自身から直接この話を聞いてほしいんです」

私はソーシャルワーカーとして、本人がよく考えて決めたことを何よりも尊重すると伝えたいところでした。しかし、裁判でどう受けとられるかを考えると、あえてこう言わないほうが良いのは明らかでした。

仮に私がそのように証言すれば「福祉は被告人の行動に責任を負えるのか?」と問われて、「それは本人次第です」とだけ答えたように見えるでしょう。「福祉は再犯を防ぐことに熱心ではない」と取られるのは本意ではありません。

いうまでもなく罪を犯すのは許されないことです。誰よりも彼自身、自分をたびたび責めていました。だからこそ、そもそもなぜ彼は犯罪という行為を選んでしまったのか、そのときどのような状況に置かれていたのかを彼と一緒に考えたいと私は思います。

彼のこれまでの人生に、この先に待ち受ける障壁を乗り越えるヒントがいくつもあるはずです。そもそも病気や障害をもちながら罪を犯してしまった人には、何らかの理由や原因があります。その人が抱える事情を本人と共有し、どう生活を立て直すのかを一緒に考えるのがソーシャルワーカーの役割になります。

甘いと思われるかもしれませんが、誰かが味方になることで犯罪とかかわらない生活に一歩踏み出せるのです。

しかし刑事裁判は、犯罪という一線を越えてしまった人の話に耳を傾ける場ではありません。罪を犯すべきではなかったのに、そちらを選択できなかった時点で、もう被告人は「信用できない人」という評価がされているからです。

そこで法曹三者の前で、精神科医や臨床心理士、ソーシャルワーカーなどの専門家が本人の代わりに証言します。その上で執行猶予がつくのか、何年くらいの懲役が妥当かと、刑罰の程度を決めていくことになります。

裁判のあとも、彼には長い人生が待っています。判決が出たその日から、誰も手を差しのべてくれない日常に直面するのは、ほかでもない彼自身です。だからこそ刑を終えたあとの生き方に目を向けて、ほんとうに罪を犯さなくてもいい生活とは何かを公判で考えることが欠かせないと思うのです。

いつか裁判でも「罪を犯した」面だけではなく、道を誤った彼がまた社会に戻ったとき、どうやって生きていこうとしているのかにも耳を傾けてもらいたいと願っています。

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