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画用紙の仏壇 その7

 デイケアでは午前のプログラムが始まった。スタッフルームには詩織だけが残っている。窓の外にメンバーたちが小さな畑の雑草を抜いているのが見えた。みな押し黙って熱心に働いている。

 榎本ゆきを探しに行く相談をしようと、詩織は主治医の橋本に何度も電話をかけていた。単調な呼び出し音を聞き続けるうちに、携帯電話を握る手がじわっと湿ってきた。昨日のことはもう気にしないとどれだけ自分に言い聞かせても、頭の中に橋本と激しく言い争ったカンファレンスの情景が浮かんでくる。

 淡く白い午後の光が6階の病棟に差しこんでいた。広いフロアの片隅にテレビがあり、おきまりの時代劇が流れている。大きな画面の前に座る数名は、それぞれ違う方向を見ていた。ガラス窓で仕切られたナースステーションの前で、一人の男性が足を止め「ねえ、僕のことテレビで言ってない?」と小声で呟いた。その問いに答える人は誰もいない。男性は「そっかあ」と言いながら真っ直ぐ歩いていった。

 ナースステーションの真ん中には看護師が作業するテーブルが置かれていた。部屋の片側に病棟につながる扉があり、反対側に2つの小部屋が並んでいる。そのうちの「診察室」のプレートがついた一室で、詩織は橋本と病棟師長の林に看護師を加えた4人で、ある患者の退院について話し合っていた。事の発端は橋本の一言だった。

「トラブルばかり起こす人を地域に戻すというのは無理でしょう」

 その言葉に反応して看護師が早口に答えた。

「でも先生、入院を続ける理由もありません。トラブルは病棟でも起こしてますよ」

 背表紙に「茂木久寿子」と書かれたカルテのページをめくりながら「だったら、彼女はどこかの施設に入るのが一番じゃない。ねえ、林師長」と橋本が言った。

「施設ですか? グループホームみたいな?」
「師長、グループホームじゃダメです。鍵がかからないと意味がないですよ」
「僕には先生のおっしゃっている施設のイメージがわからないなぁ」
「まあ問題を起こす人を集めた施設ですよ」

 橋本と林のやりとりを遮るように詩織が口を挟んだ。

「す、すみません先生、ご本人はどういう生活を望んでいるんですか?」
「希望? 聞いてない。まあ、前に住んでいたアパートに戻りたいみたいだけどボヤを出していますしねえ。大家さんが退去を迫っているんでしょう? 大沢さんが言ってたよね?」
「茂木さんの考えも確かめないと」
「知ってどうするの?」
「いや、退院を考えるのに必要ですよね!」
「期待もたせてもしょうがないでしょ! 望めば叶うって状況じゃないよ」
「でも、何かできることはあると思うんです」
「とにかく彼女はね、爆発しやすい性格だから。なんとかできる自信があなたにあるの?」
「考える前に決めちゃったら、何もできないじゃないですか!」

 詩織が言い終わる前に、橋本が立ち上がって低い声で怒鳴った。

「あのねえ! 患者にとって安心できる退院先を決めるのは僕らの責任でしょう。わざわざ不安だらけのところに退院して幸せなの? 無責任だよ、そんなのは!」

 頭の上から降り注ぐ罵声を意に介さず、詩織は淡々とした口調で言った。

「患者さんが望む暮らしをサポートするのが私の仕事です」

 大きく目を見開いた橋本がさらに辛辣な言葉を発しようとするのを制して、林が「はいはい。お二人とも今日のカンファレンスはこれで終わりましょう! 続きはまた今度ということで」と気の抜けた声を出した。一緒にいた看護師はメモを書くのを止め、まだ睨み合っている橋本と詩織を尻目に部屋の扉を開ける。ナースステーションから冷たい空気が入ってきた。

 昨日のやり取りをそこまで思い出し、詩織はスタッフルームの時計を見た。橋本に電話をかけ始めてからもう15分が過ぎている。「やっぱり私は無視か」と声に出して言った。橋本ともめるのは初めてではないし、その翌日が話しづらいのも慣れている。「あと一回だけ電話して、つなながらなければ病棟に行く!」と番号を押したそのときだった。

「もしもし?」
「せ、先生! 大沢です」
「おう、大沢」
「あ、あれ? え、もしかして林師長ですか?」
「橋本先生はいまカルテを読んでいる。代わりに電話に出た」

 詩織はホッと息をついて、すぐさま患者の捜索に行く了解がほしいと説明した。林は飄々とした口調で「おう、じゃ伝えとくわ。大丈夫ですよね、先生?」ととなりにいる橋本に言った。

 スタッフルームを出ると、デイケアの玄関に軽自動車がエンジン音を鳴らしながら止まっていた。後ろには詩織の鞄も置いてある。詩織がドアを開け「藤田、気がきく!」と声をかけると運転席の藤田が勢いよく喋りだした。

「いやあ、僕、正直、榎本さんの顔がわからないんですけど」
「小柄で痩せてて、色が黒くて頭は白髪まじりのショート。目鼻立ちがはっきりしてるの」
「ああ、その人! キャラクターの真っ赤なリュック背負ってます?」
「うん、キティちゃんのリュック」
「目をひく人ですよね。山登りにでも行くんですかって感じで」
「何でも詰め込むから、大きくなっちゃうの」
「じゃ、すぐ見つかりますね」

 ゆきの身なりを説明しながら、詩織は「この状況で、はたしていまの彼女はいつもと同じ姿をしているんだろうか」と思った。

「もしかしたら、いつもの格好じゃないかも」
「赤いリュックのおばちゃんじゃないと見つかんないっすよ」

 藤田は口を尖らせてアクセルを踏んだ。

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