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画用紙の仏壇 その8

 正午近く、香川と木島はデイケアセンターに戻ってきた。重い足取りで廊下を歩いていると、厚手のカーテンで閉めきられた部屋の中から、こぶしのきいたハリのある声が聞こえてきた。香川は急に立ち止まり「このせっかいからのう〜そつぎょうぅ〜」と、その歌を真似て口ずさむ。首をうなだれていた木島が、ゆっくりと顔を上げて呟いた。

「あれ、おこめちゃん? 尾崎豊が北島三郎みたいになってるけど」
「鉄男さん、何年も歌いこんでいるからな」
「可愛いワンピース着てね」

 二人が顔を見あわせてニヤニヤしていると、うしろから杖をついた若林康二がキュッ、キュッとリノリウムの床を鳴らしながら近づいて言った。

「入らないならどいて、邪魔だから」
「おお、若林さん。ごめんごめん、どうぞ」

 カーテンの前にいた香川は慌てて廊下の端に飛び退いた。康二は険しい目つきで二人を睨めまわし「誰か探しに行ったの? あんたら、午前中いなかったね」と尋ねた。

「いやいや、そんなことはないんだけどね。ちょっと用事があって」と、しどろもどろに香川が答えると、木島が続けて「ねえ、康二さん。桜井課長、見なかった?」と言った。

「ふん、そんなの知るわけないだろう」
「そう、ありがとう。じゃ、香川さん、課長を探しに行こう」

 営業用の微笑でその場を離れた木島はスタッフルームに入るやいなや「康二さんは顔が怖いよねえ。なんか冷たい目でゾゾーっときたよ」と、先のやり取りで飲み込んでいたことを一気に吐き出した。

 部屋の中には誰もおらず、香川は外側から死角になっている台所で手を洗い始めた。蛇口を締めて水音が静まると「なあ木島、おまえさっきさぁ、なんで桜井が連絡のつかない人を気にするのかって聞いたよね。あれは康二さんがすべての始まりなんよ」と話しだした。

「もう、10年以上も前だけど、康二さんはひとり暮らしでさ。月曜日に連絡なしに休んだんだよ。で、まだ、そのころは俺たちも一日や二日休む人がいても気にしなかったわけ。でも、それからすぐに、薬を飲みすぎて何日も部屋で寝ているのを発見されたんだ。両足のかかとと仙骨にひどい床ずれができて、あの傷がもとで足が動かなくなってな」
「それって自死しようとしたの?」
「わからん。聞いてもなんも答えない。昔は冗談ばっかり言う面白い人で、いつも同級生の鉄男さんとコンビみたいに漫才やってたんだけどねえ。人が変わっちゃったよ」
「全然、想像つかない。だって康二さんは、いつも不機嫌だよ」
「あんとき桜井が落ち込んでな。仕事を辞めそうになって大変だった」
「それって課長のせいなの?」
「あいつのせいじゃないよ。ほかのみんなも気にしてなかったし……」
「真面目だねえ。でも、なんで連絡がつかない人を放っておけないのかはわかった」
「あいつは二度と繰り返さないってここに踏みとどまってな。たとえ無駄でも心配して動くようになったんだよ」

 午前のプログラムが終わり、利用者たちは一斉に部屋から出て食堂に集まり始めた。白衣を着た栄養課の職員が大きな寸胴鍋の蓋をあけるとフワッとカレーの香りが漂った。コンクリートの壁に「おお!」と空腹の利用者たちの歓声が響く。

 相談室に向かう桜井は急ぎ足で廊下を歩いていた。もともと色白だった顔は青ざめている。知り合いの職員たちが声をかけても返事をしない。ノックもせず、勢いよく部屋の扉を開けると、ちょうど受話器を置こうとする宇佐美智子と目が合った。

「ああ、桜井。いま大沢から電話で、もう少しゆきさんを探すって」
「木島たちは戻ってきたけど、大沢たちはがんばってくれてるんだな」

 宇佐美は咎めるような口調で「あんたは何しに来たのよ」と言うと、午前中に預かった書類を読み始めた。桜井は宇佐美のそっけない態度をまったく気にせず、彼女の机の近くに椅子を引き寄せて座った。

「院長には報告したから、家族に捜索願いの連絡をしようと思って」
「そんなの、デイケアでしなさいよ」
「うさみい。俺がゆきさんの家族にちょっと弱いって知ってるじゃん」
「電話はあんたがするんでしょ。あたしはかけませんよ」
「するけど! もちろん俺がやるんだけど! ゆきさんの退院のときはおまえと俺でがんばったし、お父さんもお兄さんもおまえとしか話さなかったじゃない。となりに居てもらえると心強いんだよ」

 胡麻をするように喋っている桜井を見つめて宇佐美は微笑んだ。そして優しい声色で一言ずつ「さくらい、はやく、電話しろ」とささやいた。


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