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ふたり(兄妹)の子育てを終え、自分の人生にフォーカスする旅に出航しました 🎶。日々、新…

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ふたり(兄妹)の子育てを終え、自分の人生にフォーカスする旅に出航しました 🎶。日々、新しい人・もの・言葉との出会いに、わくわく心ときめかせています。そんな中で私が出会った「宝物」を、誰かに伝えられたら幸せ・・・。ピアノのお稽古も、日課に。

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〈アマチュア・ピアニスト〉という蛮族がいる

偉大なピアニストで指導者だった故 中村紘子さんの名著『ピアニストという蛮族がいる』(文藝春秋)。 「はじめに」の中に、次のような一節がある。 中村紘子さんの言う〈ピアニスト〉は、職業としてのピアニスト、しかも一流の、である。世界の檜舞台で活躍され、絶大な評価を確立された中村紘子さんであるからこそ、眺めることができた一流のピアニスト達。 ふと、私は思った。 〈ピアニスト〉という単語を〈アマチュア・ピアニスト〉に置き換えたら? ◆ 〈ピアニスト〉とは全く別モノの 〈アマ

    • 「触れること」は「触れられること」ーーピアノを弾くってそういう感じ。

      「触れる」と「触れられる」は表裏一体たとえば、本当に心細くてたまらない時、他人と話しても話しても分かり合えないと感じる時、悲しみや絶望に打ちひしがれている時 ーーー 無言のままでも誰かに肩を抱かれたり、手を重ねてもらえれば、何故だか自然と心が落ち着く。訳もなく慰められる。 もしこちらが誰かの肩を抱き手を重ねてあげる側だとしても、言葉にするのが難しい思いが少しは相手に伝わる気がして、自分自身が救われる。 そうして触れ合った瞬間、ただ二人が同じ空間に居るだけだった以前とは、

      • 人生が決まる瞬間はいつ訪れるか分からない。

        これまで人生の各ステージで選んできた仕事。言い訳ではないが、その時どきの日々の生活を前提として、自分や家族の時間・空間・健康にそれほど無理はきたさない職についてきた。 できる限り魅力の感じられる仕事、自分の能力を生かせる仕事を選んだ。そうして積んだ経験は、確かに現在の私の血肉になっている。 これまでの人生に後悔はない。だが、胸の奥には何となくモヤモヤが巣食っていて、歳を重ねるごとに大きくなってきた。それは、まだ自分の人生の「本命」にチャレンジしていないのではないかという自

        • 何もしないことが役に立つ

          「病は気から」は本当だ!思い煩う事がなぜか次々と重なり睡眠不足、身体の一箇所が不調をきたすと、更に不調は次々と不調を呼ぶ。 そんなこんなで何日もの間、明らかに「生産性のない」日々を過ごしてしまった。 そうすると、またそのことが情けなくなる。本当に悪循環も良いとこだ。 急に冷え込み日の暮れるのも早いこの季節、樹々の葉の色の移ろいも美しくて、儚くて、哀しい季節。そんな季節に追い討ちをかけられそうだったが・・・私という存在も、やはり少なからず愛されていた。本当に奇跡のように、

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          アマチュア・ピアニストの「お稽古」と「本番」

          「ピアノの・・」と来れば「お稽古」「ピアノのお稽古」。 瞬時に子どもの頃の気持ちに戻ってしまうフレーズだ。アップリケの付いたレッスンかばんを下げていた頃の、ちょっぴり神妙な心持ち。 アマチュア族の「お稽古」すなわち「練習」について、書いてみようと思う。 子どものお稽古 vs . 大人のお稽古「楽器の王様」と呼ばれ、膨大な数の「おたまじゃくし」を扱うピアノは、他の楽器に比ベて長時間の練習が必要とされる。だから、愚直さや忍耐力が少なからず要る楽器だーーープロの演奏家ほどでは

          アマチュア・ピアニストの「お稽古」と「本番」

          再び、幸せに向かって歩み始める。

          霧が晴れた朝を迎えたら・・・前よりも幸せになっていた。 心に雲一つない青空が戻った。戻って来た青空は、今迄で最高に美しい! 色々な事があり、時計の針が進むに従い心が浮き沈みを繰り返すこの夏だった。どうしてそのような事が起こったのか、その訳を確かめることが、今後歩むべき方向を決めるのに避けては通れないと考えていた。 しかし、いくらそれを確かめようと・・・与えられる回答を信じない限り、終わりは来ない。 そしてそれらの回答を私が信じるかどうかに拘わらず・・・「真実」は一つで

          再び、幸せに向かって歩み始める。

          夏の終わりに愛をもらう

          夏の“To Do List” が何一つ片付かずに、九月も上旬が過ぎ去ろうとしていた。そんな自分に自信を失いかけていた頃、ご無沙汰していた知人から立て続けに連絡があった。 中学・高校時代の友達、大学時代のサークルの先輩、そして以前の職場の人。 中学・高校時代、そして大学時代の自分が・・・悲しいことだが好きではない。理想から程遠い現実に鬱々とし、日々無様にあがいたりもがいていた事が思い出される。なのに、その頃のそんな私と出会った人が、今日に至るまで私と関わり続けようとしてくれ

          夏の終わりに愛をもらう

          noteを始めて早や3ヶ月! の甘酸っぱいキモチ

          noteの初投稿から3ヶ月が経った。《3ヶ月連続投稿》のバッチ🌟を頂いた。 毎日あるいは毎週投稿されている方達には及びもつかない投稿記事の数(涙)・・・なのに、noteは本当に優しい !! その優しさに自ずと癒されながらも、やはり癒されきれない”焦り”が胸に残る。 それは振り返るまでもなく、noteに向き合う時間の大半は、「書く」ことに充てられなかったという反省に基づく。 気付くと私は、時間を忘れて「読み」続けていた。そして、ずっと「考え」続けてはいたのだが・・・。

          noteを始めて早や3ヶ月! の甘酸っぱいキモチ

          白い薔薇になったおユキさんの記憶

          今から約120年前、京都から外国に渡った一人の女性についての新聞の特集記事が目に留まった。モルガンお雪( 1881(明治14)〜1963(昭和38))。名は聞いたことが有った。 没落した商家から十四歳で姉に続き花街に入ったお雪さんは、米国の大財閥モルガン家の人に見初められ結婚して渡米、後にフランスに移住し社交界でも活躍したという。未亡人となって後の第二次世界大戦前、30年ぶりに日本に戻り京都で余生をすごした。 しかし巷の日本人にはあまり知られていない彼女の墓に、米国からモ

          白い薔薇になったおユキさんの記憶

          「雨のち晴れ」ーー今ここにある幸せの貴さ

          「信じる」ことと、「疑う」・「怖れる」ことは、紙一重だと思う。 「無条件に信じる」ことができている状態が永遠に続くなら、本当に幸せだ。・・・いや、永遠に続くものと感じているからこそ、「無条件に信じる」ことができのだと思う。 ところが、予想もしなかった事が、突如として起こる。一瞬にして、それまで有った無条件の信頼は崩れ落ちる。 そして、もしも・・・もう一度、以前のように信じたいと願い、自ら信じようとするならば、その為には、これまでは空気のように当たり前だった筈の些細な事を

          「雨のち晴れ」ーー今ここにある幸せの貴さ

          「なぜ私はピアノを弾くのか」考えていたアマチュア・ピアニストは、思わず涙した。

          心が求めていたら、出会える奇跡。 辛いことが、有った。 そして・・・無意識に助けを求めていたのだろう、noteを彷徨っていると、坂爪圭吾サンの言葉にめぐり会えた。 真夏のここ数日、早い目覚めと共に、少しずつ彼の記事を読んでは、心の沐浴をしている。  彼の自己紹介の記事に行きついたら、まさかの言葉「ピアノを弾くこと」が出てきた。 私のために書いてくれていた文章のように思われて・・・なんて「単細胞」(笑)・・・気付けば、私は一人きりのリビングで、声をあげて泣いていた。

          「なぜ私はピアノを弾くのか」考えていたアマチュア・ピアニストは、思わず涙した。

          「自信」と「結果」の話(その1)

          「自信があったのになァー」と、残念な結果に肩を落とす。よく有る光景。 だけど「自信」って、何なのだろう。 「自信」が欲しい、「自信」の有る人になりたいと、ずっと憧れ、願い続けてきたように思う。つまり、自分には「自信がない」と自覚していた。 そのくせ、残念な結果が出てはそれを素直に認めることができず、「こんな筈じゃない」と、ただただ悔しいのだった。 「自信」というものの正体は何なのか、何から生まれるものなのか、今まであまり深く考えてこなかった気がする。「結果」が出ないか

          「自信」と「結果」の話(その1)

          親としても子としても心に響く【ぼくたちの哲学教室】ー分断の世界の虚しさを希望に。

          「哲学」というと分厚い本や学者をイメージして敬遠してしまうが、この映画は、北アイルランドの男子小学校が舞台のドキュメンタリー。机上の学問・研究などとは程遠い、とても身近な・・・自分や家族、友達の生命・血・涙につながる真剣な「対話」の授業の話なのだ。 万国共通の”あどけなさ”満載の男の子たち。校庭での遊びの中、生まれる小突き合いに、喧嘩。まさに一見、万国共通の子どもの日常茶飯事だ。 しかし、彼らの育つその町は、まだ北アイルランド紛争の記憶が生々しく、今も対立するプロテスタン

          親としても子としても心に響く【ぼくたちの哲学教室】ー分断の世界の虚しさを希望に。

          終わらない雨音と、コトバと、過ごす日

          梅雨明けとしか思えない、空の向こうまで爽やかな空気の流れが感じられるような日々のあと・・・雨が戻ってきた。 六月のまっ只中のこの「梅雨」が、イコール「五月雨(さみだれ)」だということを、初めて知った。 「さみだれ」という優しい言葉の響きは、この頃、続々と到来する梅雨前線による豪雨と、どうしても結びつかない。けれど、昔、雨樋もなかった頃の「五月雨」が「軒より落つる滝」や「所々に滝落つる」と言い表されたという。イメージ刷新(笑)! ところで・・・、悩みを打ち明けたい。 梅

          終わらない雨音と、コトバと、過ごす日

          一日一歩♪ の、心持ち

          〈葉きり蟻の行進〉に勇気をもらう令和元年だからもう4年になる。その立春に100歳で没された画家 堀文子さんの追悼展で、柔らかで素朴な緑の色合いに一目惚れで手に入れた絵葉書。以来、リビングの壁に。まったく見飽きない。 絵のタイトルは『葉きり蟻の行進』、82歳の時の作品というから驚く・・・何て初々しさ! 展示区画《新しい場所、新しい人と出会って、いつも子供みたいにびっくりしていたい》に、この絵は有った。 無数に連なる葉きり蟻の運ぶ葉っぱ一枚一枚の色・大きさ・形の多様なこと!

          一日一歩♪ の、心持ち

          自分のキゲンは自分でとる♪♪

          入梅の候。雨空の下でも、道を歩くと様々な紫陽花との出会い!何故だか心惹かれる花! ジューン・ブライドの季節。今日は朝ドラと或る本のマリアージュのお話。 ここのところ朝ドラの時間は私のメイク・タイム(メイクのついでに観ている体だが、本当は朝ドラ観る言い訳にメイクしてるのかも・・・。いずれにしろ、一日の初めの気分に、それなりの喝を入れてくれる)。 先週の朝ドラ『らんまん』、主人公の万太郎が来ないことを気に病むヒロインに、母が言い聞かせる言葉。とても刺さった。 近頃出会った

          自分のキゲンは自分でとる♪♪