見出し画像

白い薔薇になったおユキさんの記憶

今から約120年前、京都から外国に渡った一人の女性についての新聞の特集記事が目に留まった。モルガンお雪( 1881(明治14)〜1963(昭和38))。名は聞いたことが有った。

没落した商家から十四歳で姉に続き花街に入ったお雪さんは、米国の大財閥モルガン家の人に見初められ結婚して渡米、後にフランスに移住し社交界でも活躍したという。未亡人となって後の第二次世界大戦前、30年ぶりに日本に戻り京都で余生をすごした。

しかし巷の日本人にはあまり知られていない彼女の墓に、米国からモルガン家に縁のある若者達が絶えることなく今も訪ねてくるという。

記事には、芸妓時代の胡弓を弾く凛とした姿、晩年の上品な洋装姿の写真も添得られている。彼女が帰国した当時の彼女の第二の故郷・祇園の人々の温かな歓迎ぶりも記されていて、一体どんな人だったのかと興味を惹かれた。

彼女のことが掲載された本を見つけた。

著者 吉屋信子( 小説家、1896(明治29)〜 1973(昭和48))が、お雪さんに何とか面会がかなった時の様子が、わずか三頁ほどであるが書き記されている。

 彼女は帰国の途上もこうして寄港地ごとにカメラマンと新聞記者に包囲され続けて、やがていよいよ京都にはいると、新聞以外にあらゆる雑誌が「中央公論」までがモルガン夫人の記事を企画するという全国的のお雪ブームだった。

《大人の本棚》『私の見た人』吉屋信子 みすず書房、「モルガンお雪」より一部抜粋

「婦人雑誌の依頼で京都でおゆきさんの到着を待機、翌日訪問を志した」が、「旅中から見世物扱いで疲労こんぱい「堪忍しておくれやす」の一点張り」のお雪さんが取材は一切お断りという中、彼女と同船だった某博士に「ファム・エクリバン(女作家)だから」と口添えしてもらってやっと面会許可を得たという。

待合いに「写真撮られるのしんど言やはります」と言伝てが来て、「万事休して」同伴のカメラマンを階下に追いやり信子がひとりになると、「パリジェンヌ好みの黒い服」の彼女がやっと現れる。しかし、信子がパリに滞在したことを知り逆にお雪から質問攻め、すっかりご機嫌になったお雪が「カメラ氏」をその場に呼び入れたそうだ。

 やがて別れぎわに未亡人は辿々しい標準語で「フランスヒトノコトカマイマセン。ニホンアマリヒトノコトサワギスギマス」と嘆かれた。そのサワギのお使いに来た私は恥じ入り、面目上「満州や支那と戦争ばかりして日本のひとなんにも面白いことないから、あなたのことさわぐのです」と言ったら「オオ、ニホンノヒトホントニカワイソウ」と・・・彼女はきょとんとした表情だった。

同 上 

僅か三頁ほどのこの手記は、世間一般に抱かれている華やかなイメージからは程遠い、お雪さんの飾らぬ慎ましい可愛らしい「人となり」と姿を、目に浮かぶほど鮮やかに伝えてくれる。


先の新聞記事によると、結婚後10年程での夫の急死後もずっとモルガン家の一員としての立場・役割を果たし通し、56歳で日本に帰国した後もモルガン家の人々との関係を大切に守り断つことの無かった彼女は、戦時中の特高警察に目をつけられたり、終戦後は預金封鎖や米国からの送金停止にも遭ったりしたそうだ。

凛としたその生き方を貫いた「ユキ・モルガン」を身近な上の世代から伝え聞いているからこそ、はるばる米国から若者たちが墓参りに訪れるのだろう。

あの時代、アジア人に対しての人種差別もある中で、米国から移住したフランスでもまた人々に慕われ愛される存在となるのは並大抵のことではない。フランスで、後に開発された新しい白い薔薇が「ユキサン」と名付けられるまでに……。


モルガンお雪と呼ばれたひとりの女性の存在とその一生涯は、歴史上の事実以外の何でもない。だけどその存在がこの世から消えた後も、唯一無二の存在として人々の記憶に残り、語り継がれ、思い出されるのは ーーー 例えば、お雪さんについて、本当にささやかな「覚書」を残してくれた吉屋信子さんのような人がいたからなのだと思う。

記憶が後世に残るとは、そういうことだろう。”事実”だけが記憶となって語り継がれていくことは、おそらく無いのだと…。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?