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「自信」と「結果」の話(その1)

「自信があったのになァー」と、残念な結果に肩を落とす。よく有る光景。

だけど「自信」って、何なのだろう。

「自信」が欲しい、「自信」の有る人になりたいと、ずっと憧れ、願い続けてきたように思う。つまり、自分には「自信がない」と自覚していた。

そのくせ、残念な結果が出てはそれを素直に認めることができず、「こんな筈じゃない」と、ただただ悔しいのだった。

「自信」というものの正体は何なのか、何から生まれるものなのか、今まであまり深く考えてこなかった気がする。「結果」が出ないから「自信」が無いのだと、ただひたすら良い結果が与えられるのを期待していたような気がする。


昨晩テレビを観ていると、いつもの如く、大リーグのエンジェルス 大谷クンのニュースが出た。すっかり毎日のようにホームランを打っているような気がしていたので、「5試合ぶりとなる36号ホームランを放った」というアナウンスに、ちょっとハッとした。・・・キングへ独走状態という本当に凄い成績であるのだから、5試合ぶりと言っても「好調のうち」なのだろう。・・・が、ここ4試合、ホームランを打てずに大谷クンが過ごしていたという事を認識させられた。

大谷くんも「打てない」日も有るのは頭分かっていたつもりだった。「野球は失敗がほとんど」だから。しかし改めて思い出してみると、どんな出来の日であれ、試合後のインタビューの彼の表情はいつも同じ冷静さ、一喜一憂していないのだ。真に「自信」が有るとは、彼のような心理状態なのだろうと思った。「結果」が「自信」を左右していないのだ。言い換えると、「結果」だけが「自信」を生んでいるのではない。


上の記事に書いたように、〈アマチュア・ピアニスト〉の端くれである私は、ここ10年ほど毎年「ピティナ・ピアノコンペティション」というコンクールに挑戦してきた。我々のような大人の趣味の演奏家が出る部門の課題曲は「自由曲」。つまり、自分で、星の数ほど有るクラシック・ピアノ曲から、演奏時間の制限等の条件を踏まえれば自由に選んだ曲を練習して臨める。だから、曲選びは大切だ。

コンクールに挑戦するからには、やはり良い「結果」が欲しい。毎年、夏、コンクールが終わるや否や、来年の課題曲選びに、楽しみながらも躍起になるのが、我々仲間のお決まりである。

それにしても皆んな、本当に素敵な曲をどこからか見つけてくる。私も負けじと、自分の弾けそうな範囲で最大限、審査で良い点数をもらえそうな曲ーー華やかで技巧的な曲を、ピアノ再開後長い間、選んでいたものだ。

しかし、なかなか地区予選を通過し、地区本選に進めたとしても、全国大会までの道はとても険しい。目にみえて年々参加者も増えると同時にレベルが上がり、殆どプロ並みの参加者も見受けられる。たかが5、6分の演奏でいつも一年の夢が終わるのは、やはり空しく寂しいものだ。

私は昨年、猛暑の中のコンクール終了後、はたと考えた。こんな事を毎年していたら・・一年に一曲しかまともに取り組めないなら・・・せっかく偉大な作曲家たちがこの世に残してくれた素敵な数々の美しい曲が弾けず仕舞いで人生が終わってしまう!ーーふと、そのことに気付いた私は、もうコンクールにこだわるのは止め、年に何曲でもどんどん弾きたい曲に取り組もうと思ったのだった。

ーーー 続く ーーー

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