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「触れること」は「触れられること」ーーピアノを弾くってそういう感じ。


「触れる」と「触れられる」は表裏一体

たとえば、本当に心細くてたまらない時、他人と話しても話しても分かり合えないと感じる時、悲しみや絶望に打ちひしがれている時 ーーー 無言のままでも誰かに肩を抱かれたり、手を重ねてもらえれば、何故だか自然と心が落ち着く。訳もなく慰められる。

もしこちらが誰かの肩を抱き手を重ねてあげる側だとしても、言葉にするのが難しい思いが少しは相手に伝わる気がして、自分自身が救われる。

そうして触れ合った瞬間、ただ二人が同じ空間に居るだけだった以前とは、全く違う何かが生じる。

お互いの「触れたい気持ち」と「触れられたい気持ち」が通じ合ったと感じられた時、その「触れ合い」は魔法のように双方の心と身体を一瞬にして温かくしてくれる。

身体心理学者 山口 創さんは、フランスの哲学者メルロ=ポンティの言う『二重感覚』という言葉を紹介している。

彼は「触れる」という行為は、同時に「触れられる」ことになるのであり、これらが交互に交代するような曖昧な感覚をもたらすと述べている。この特質から、自他の融合感覚が生まれることになる。対象と私を隔てる自他の境界感覚が一時的に解除されるのだ。

NHKブックス『愛撫・人の心に触れる力』山口 創

「触れる」のも「触れられる」のも、・・・だから同じこと。

「触れる」とひと言で言っても・・・

ところで、何かに「触れる」とひと言で言っても人の「触れ方」は多種多様、千差万別だ。

どの指(と、どの指)を用いるか?指先で触れるのか?指の腹で、なのか?手の甲、あるいは手のひらを使うのか?どのような強さで?触れる時間の長さや繰り返す回数は?その間隔は?・・・また、同じ人が同じ対象に何度触れるにしても、その都度、その方法の選択肢は無限である。

私たちは何かに触れようとする時、相手あるいは対象物の側に心を寄り添わせるものだ。私たちは無意識に「触れ方」に気を配っている。そして、相手(対象物)に対し、まるで「これでいいの?」と尋ねるように触れていると言っていい。

そうして意識的に触れると、私たちはその相手(対象物)から何かを感じさせられる。つまり相手に「触れられる」。少なくともその感覚が期待に沿った心地良いものであったなら、触れた本人は当然満たされる。それまで以上に相手(対象物)に対する愛おしさが増し、一体感が生まれる。

その幸せな『二重感覚』は、まさにピアノを弾くときの感覚

ピアニストの手指の鍵盤への「触れ方」に、身体全体の姿勢や重心のかけ方も含めれば、「触れ方」の種類は計り知れない。全ての条件が組み合わさって生み出された一つのタッチは、そのピアニスト本人でも二度と完全に再現することは不可能だろう。

だからこそ、それらのタッチの成果として返ってくるピアノの音色・響きは発せられたが最後、過去にも未来にもこの世に唯一無二のものとなる。

さらに湿度や気温、調律の状態、音響空間によっても聴衆の耳や身体に届くピアノの音色、響きは変わるのだから、星空の中の一点のような貴重な一期一会だ。

その一期一会の音の粒を生み出すと殆ど同時に、ピアニストは全感覚をもって受け止め、瞬時に判断する。良い音を出せているか?ーーー大抵は、完全に満足をするということは無いのだろう。様々なスペックを即座に再調整して、鍵盤に向かい、次々と新たなタッチを繰り出し音を紡いでゆく。ピアニストとピアノはそんな風にに互いに「触れ、触れられ」ながら、脈々と音楽を奏で続ける。

聴き手も「触れ、触れられる」

細やかに あるいは 大らかに、豊かに あるいは 無機質に、力強く あるいは か細く、柔らかく あるいは 硬く ーーー ピアニストの手指は鍵盤に触れる。そんな風に鍵盤の上を自在に躍動するピアニストの手指に、人は魅了される。そのうえその果実としての音楽も同時に聴衆に注がれて押し寄せるのだから、まるで目からも耳からもピアニストの創り出す世界に「触れられている」あるいは「触れている」様な心地になる。  しばしば人が、ピアニスト(の手)や、ピアノの弾ける異性(の手)にうっとり恋してしまうのも不思議ではない。

音楽とは「共振」だと言う。ピアノを弾く人の身体と楽器、そしてその調べを享受する聴き手との共振。

自他が融合する音楽の中で、「一人」の境界は解き放たれ、幸せに満たされる。

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