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親としても子としても心に響く【ぼくたちの哲学教室】ー分断の世界の虚しさを希望に。

「哲学」というと分厚い本や学者をイメージして敬遠してしまうが、この映画は、北アイルランドの男子小学校が舞台のドキュメンタリー。机上の学問・研究などとは程遠い、とても身近な・・・自分や家族、友達の生命・血・涙につながる真剣な「対話」の授業の話なのだ。

万国共通の”あどけなさ”満載の男の子たち。校庭での遊びの中、生まれる小突き合いに、喧嘩。まさに一見、万国共通の子どもの日常茶飯事だ。

しかし、彼らの育つその町は、まだ北アイルランド紛争の記憶が生々しく、今も対立するプロテスタント住民とカトリック住民を分離する長い壁が街を分断し、武装化した組織が若者を勧誘する。犯罪や薬物が子ども達を奪い去りはしないかという怖れを、親はずっと抱えながら生活している。

だから、一見、子どもらしい諍いや悩みであっても、生活環境の問題・大人達の不安や怒りに根差すものであったりする。素直な子ども達は、身近な家族が口癖の様に発せられる言葉ーーそれはそれまでの経験に基づいたものなのだがーー、たとえば「やられたら、やり返せ」に、従おうとする。

小学校のケヴィン校長は、マッチョな、エルヴィス・プレスリー好きの愉快な人柄。一方で、自らが若かりし頃、頼り振るって来た拳(こぶし)を恥じ、本当に子ども達自身の身を守るのは、己れの心の声に耳を傾け、不安や怒り、衝動をコントロールできるようになることだと、「哲学」すなわち「対話」の授業を重きを置く。

そこでは、子ども達が、互いの言葉に耳を傾け、自らの思考を整理して、更に新鮮なアイデアを出し、自分がとるべき行動を自ら悟り、トラブルを解決する。そして自ら、一歩、前に進む。

いじめを受けた子よりも、いじめた子が反省をして大泣きしてしていた場面は、印象的だった。相手の気持ちを想像し共感することができていることに感動した。

ケヴィン先生は言うーーー相手の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分の頭を使うこと。疑問に思えば、「なぜ」と問い返すのだ。親の頭の中に入りこんで ”なぜ” と問うこと(親と同じ過ちを繰り返さない為に)。・・・この言葉は、親の考えに人生を左右されたと感じているあらゆる世代の人々にも、刺さる。

憎しみの連鎖を断ち切り、新たな連鎖を生み出さないようにと、自らの半生の後悔と挫折から、子ども達に熱い思いを託し、それに応えて確実に変化し成長を遂げる子ども達の姿が、心に響く。

ウイルスやら軍事侵攻などで世界の分断が危惧される現在、この映画が注目されるのは当然かと思う。あらゆる人に見て欲しい。・・・が、敢えて、私は子育て中のパパ・ママに、そしてこれからパパ・ママとなるであろう若い方々に見て欲しい!

大切な我が子が、友達とモメた時に、親はどうすればよいのか? 我が子にどんな言葉をかければいいのか? 私は、長男が小学生だった頃の、親としての不安な気持ちを思い出した。傷ついて欲しくない、同時に、お友達を傷つける子にはなって欲しくない。切実に願いながら、子ども同士のトラブルにどう対処していいか心を悩ませることが度々あった。こんな映画があの時観れていたら、と思う。

子育てをしていると、きっと到来するそんな場面。この映画は、パパ・ママの大きな心の拠り所になってくれるだろうと思う。

因みに、ケヴィン校長は大学卒業後、まず柔道の先生となって道場を開いた。そうして、教育の太い道へと進んだのだそうだ。”柔道の父”と呼ばれ、教育に尽力した日本の「嘉納治五郎(1860-1938)」と、重なった。

「柔を能く、剛を制す」
「自他共栄」「精力善用」

嘉納治五郎


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