この度、noteで長年で書いて参りました短文と加えて小説を自社の印刷物として出版致しました。(「邂逅 山門をくぐりて/随想 人は出逢う」発行 アートスクウエア観) noteという掲載の場で気ままに自分の思いを書かせて頂いたことを感謝しております。 この頃は投稿をしておりませんでしたが、今年はまた再開したいと思っております。 以下に出版の思いとして、著書のあとがきを掲載させて頂きます。ご一読して頂ければ幸いです。 あとがき もう四十年近く
これは数年前に亡くなられた尊敬する漆工芸家・小島雄四郎先生が最後に私に残してくれた言葉です。 先日、昭和のビジネス界を代表する最後の人物・・・稲盛和夫氏が天寿を全うされました。生前稲盛氏にお会いする事は叶わなかったのですが、多少のご縁を感じております。 私がまだ小学生の低学年の頃、両親の仲人でもあった名僧の通山宋鶴老師が師家として住職をされていた京都八幡の名刹円福寺僧堂によく家族で遊びに行っていました。私を孫のように可愛がってくれた宋鶴老師を京都のおじいちゃんのように
むかしある村に神聖とされている池があった。 その池には大きく綺麗な魚が飼われていた。 その魚は代々の血統も良く、村人たちからは大事にされ、ほかの村の評判も良くその村のシンボルのような存在で、皆その魚を誇りに思っていた。 ある日、村一番の貧乏な少年が池のほとりに立ち、思い詰めた表情でその魚めがけて石を投げた。その美しい魚は死んだ。 さてさて村は大騒ぎ…大事な魚を殺めた少年はその場で重い罰を受けた。殺生の当然の報いであった。 村の長老たちは集まり、その魚を丁重に引
私に茶道と華道の手解きをして頂いた元帝国華道院の理事長を務められた恩師・関江松風先生が天寿を全うされました。 生前は本当に可愛がって頂きました。 先生に習い始めた二十代の頃、「君にはお免状はあげないよ…女の子には将来何か生活の為になればとお免状はあげるけど、君みたいな男にはお免状などあげない…その代わりどんな偉い人と同席しても動じないお茶の精神と振る舞いを教えてあげる」そう言われました。 三十代の頃はまるで戦争のような日々を過ごしていた私でしたが、週に一度東京谷中
人は好むと好まざるに関わらず、生きていると運命に直面致します。 その時、我が身を思い身をかわすか?それとも捨て身で運命に対峙するか? それは人それぞれの選択です。しかし、人の上に立つ人間はそうは行きません。 上が身をかわせば、必ず下の者は犠牲を被る結果となります。 先のリーダーが我が身を思い逃げて、この困難な状況を理解した上でリーダーに立った 彼が捨て身で運命を背負う覚悟が有ったのか・・・もしかしたら、甘い認識だったのかも・・・それでは下の者は救えません 終戦記念日を前に
長年共に仕事をして来た信頼する陶芸家が、肩の力を抜いて余技で作った作品に、戯れに思いを込めて・・・ 「湘南ラッキーキャット物語」 湘南のサザンビーチにほど近い閑静な住宅街・・・ 芝生の手入れの行き届いた小さな庭のある一軒の家・・・ 庭に面した窓から、いつも5歳になる小さな男の子が芝生越しに見える路地を行き交う人を見つめていた。男の子は難病を患い外で遊ぶことを許されていなかった。彼の唯一の楽しみはその路地を行き交う人を見ること、特に自転車の脇にサーフボードを乗せ、ウエ
隅田川の屋形船でコロナの感染が発生して、一年が過ぎようとしている。 係留されている屋形船で、若い船頭が黙々とメンテナンスと掃除をしていた。シーズンオフとは言え、先の見えない作業・・・どこか胸が痛む。 隅田川の桜・・・両国の花火大会・・・彼らの晴れ舞台・・・隅田川の川面を競うように滑り・・・何十艘の屋形船がお客のために絶好のビューポイントへと急ぐ。これも江戸から続く下町の男たちの仕事・・・ 禅将・澤木興道老師の講話の中にこんな話がある。 「真剣勝負で、利き腕を封じ
今月初めに、尊敬していた奈良の「やきもの・いこま」の元オーナーの箱崎典子女史が他界されました。 また、ひとり・・・目と心のある方が居なくなりました。とても残念です。 私が美術工藝品販売の世界に入ったばかりの若い頃、銀座の有名百貨店の美術販売の信頼するベテランの方がこう忠告してくれました。 「この世界は魑魅魍魎の飛び交う世界だから、君のような人間は付き合う相手を気を付けなさい」と、それから何十年も経ち、確かに魑魅魍魎とは言わぬまでも、純粋な作り手とは違い美術品を扱う人間に
「うらをみせおもてをみせてちるもみじ」 この歳になり色々な経験を経て、良寛のこの句の意味が実感できるようになった気が・・・ 私には2分と記憶のもたない九十一歳になるが母親いる・・・戦中戦後と強烈な個性とパワーで生きて来た彼女・・・バブル後事業に失敗・・・それでも生来の気の強さは年をとっても健在であった。 常に自分を肯定し続けて来た彼女がぽつり・・・ 「わたしは、もしかしてお前やまわりの人間に迷惑を掛けたのか?」 思わぬ言葉に私は笑って 「随分まともなことを言うじゃな
世間では悲しいことに自死の連鎖が続いています・・・ 先日、仕事仲間の作家さんから自分の友人の子供が自殺をして、どういう風に声を掛けていいのか分からない・・・また、違う若い作家さんからは、どうしてこの頃自殺が多いんですか?という話題を振られましたが、その時は時間がなく話が出来ませんでしたが、この場を借りて・・・ むかし、知り合いの心理学者と話をしていたら、こんなことを教えてくれました。 命に係わる大きな病気をして、それを克服した人間や、深刻な出来事に出会い死を覚悟した
話題のS官房長官が次期総理に決まったようですね・・・さてさて・・・ 私の記憶の中で名官房長官というと、田中、大平、宮沢、中曾根という歴代の総理を支えた後藤田正晴という政治家を思い出します。別名「カミソリ後藤田」と呼ばれて人物です。 内務省、陸軍、警察官僚を経て、激動の昭和の時代を常に現場で困難な問題を処理してきた叩き上げの政治家という印象を持っています。 勿論政治家である以上、その事績に賛否はあるにせよ、昭和の歴史において政治家として自分の仕事を全うした人物だと感じてい
我がことを振り返るほど余裕のある日々を過ごしている訳ではないのですが、齢五十後半にもなれば、否応なしに我が身を振り返えざるを得ないのです。 この頃つらつらと、我が思考はどうしてこうなったのか?と考えています。時にはその思考が人との軋轢を生み、時には人から面白いと褒められる。さてさて、どこから来たものなのか? 年を取って唯一面白いと思うことは、人に嫌われたとき、どうして嫌われるんだ?人に好かれたとき、どうして好かれているんだ?と時に俯瞰できる瞬間があること。(若い時は
毎年のように日本が猛暑に包まれる頃・・・終戦記念日がやって来ます。 今年はこのコロナの騒ぎの陰で、政治の世界では「専守防衛」という戦後日本が守って来た壁が崩されようとしています。 歴史が物語るように、戦争は些細な出来事から簡単に始まり、そして、それを終わらせるには多くの困難と犠牲を伴います。 七十五年前の夏、一握りの心ある政治家が文字通り命懸けであの戦争を終わらせました。 「昭和20年・・・1945年8月9日の深夜から、10日の未明にかけて、終戦の最後の決定をする
私の恩師は、禅僧としても学者としてもとても著名な方でしたが、その生い立ちは苦労に満ちたものでした。 父親は自分が生まれる前に借金を残し蒸発、母親は自分を生んだお産で死に、十歳以上年の離れた自分を育ててくれた実の姉は、恩師が十歳の時に過労で病に倒れこの世を去った。 少年期の恩師は「自分はこの世に必要のない人間」と思い込み、常に自殺を考えているような子供であったと語られていました。 学生時代に恩師は、こんな話を私にして下さった。 「ガキの頃、わしはある日、すべてに絶
長年、仕事を共にさせて頂いている陶芸家の山﨑豪さんがインスタグラムに蓮花の蕾の画像と共にこんな投稿されていました。 「芍薬も蓮の花は3分咲き位が一番好きで、蕾の期待感も何とも言えず足が止まります。」彼も40歳手前になり、芸術家としての感性や美意識が身について来たような気が致しました。 さて、この投稿を見て思い出すのが・・・私の座右の書の一冊「菜根譚」の有名な一節 「花は半開を看、酒は微酔に飲む、此の中に大いに佳趣あり、もし爛漫もうとうに至らば、便ち悪境を成す・・・」 私
(現在のリーダーと呼ばれる人たちを思い・・・数年前に書いた駄文の再アップになります。) ひと昔まえの有名な「日本人とユダヤ人」、という本の中に、こんな一節が書かれています。(イザヤ・ペンダサンこと山本七平著) 「日本人すなわち日本教徒を手っとり早く理解するには、どうしたら良いか、という相談を受けた場合、私は即座に『氷川清話』を読めということにしている。…まず第一に勝海舟という人物がその時代の第一級の人物であったことによる…」 私は、若い頃この一節に触れ、はじめて「氷川