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運命を背負う

 人は好むと好まざるに関わらず、生きていると運命に直面致します。
その時、我が身を思い身をかわすか?それとも捨て身で運命に対峙するか?
それは人それぞれの選択です。しかし、人の上に立つ人間はそうは行きません。
 上が身をかわせば、必ず下の者は犠牲を被る結果となります。
先のリーダーが我が身を思い逃げて、この困難な状況を理解した上でリーダーに立った
彼が捨て身で運命を背負う覚悟が有ったのか・・・もしかしたら、甘い認識だったのかも・・・それでは下の者は救えません
終戦記念日を前に、捨て身でリーダーとしての責任を果たし、運命を背負ったあの日の為政者たちに思いを馳せて・・・


2016年8月ksコラムへの投稿より
「運命を背負う」
先日8月8日に天皇陛下がご自分の生前退位について、ご自分の言葉で意志を示されました。
 天皇がご自身の意志を示されることは、立憲君主として控えられて来ましたが、今回は異例の出来事で、政府や国民も驚きを感じたのではないでしょうか。
 ご自身のご健康のこと、皇族の存続についてのことについて述べられているのですが、見方を変えれば、今回のお言葉は平和の象徴として人生のすべてを公務に捧げて来た陛下の、今の政府に対しての意思表示として、受け取ることも可能なのかも知れません。


 「昭和20年・・・1945年8月9日の深夜から、10日の未明にかけて、終戦の最後の決定をする天皇御臨席の「御前会議」が開かれた。広島に原爆が投下されるなど、日本の戦局は末期の状況を迎えていた。
 戦争終結へと向けて、組閣された鈴木貫太郎内閣は、なお強硬な立場をとっていた陸軍の対応に苦慮していた。その日には、長崎にも原爆が投下され、ポツダム宣言受託内容の早急な決定が迫られていた。
 決して軍の立場を譲らない、阿南陸相などを説得するために、鈴木首相は、最後の手段として天皇のご聖断を仰ぐための御前会議を開かざるを得なかった。
 そのとき、天皇に速やかな終戦の案を進言したのが、国内外ともに終戦へ向けて命懸けの交渉を続けて来た、東郷茂徳外相であった。
 深夜に始まった御前会議で、立憲君主の立場を貫かれてきた昭和天皇も、陸軍の主張を退け「私は東郷外相の意見に同意である」とその意思を初めて示された。そして、その結果、日本は8月15日に無条件降伏をすることになる。」

 私が、昭和史に興味を持った若い頃、関連の書籍を読む中で、この御前会議に出席した天皇陛下を含めた、ぎりぎりの立場とそれぞれの運命を背負った人間のやり取りが強く心に印象付けられました。特に、外務大臣を務めた、東郷茂徳氏にはとても強い印象を持ちました。
 彼は平和主義者・非戦論者でありながら、戦争回避に失敗した開戦時の外務大臣としての責任を感じ、誰もが、やりたがらない戦争終結への外務大臣の任を引き受けます。ソ連をはじめアメリカとのぎりぎりの終戦交渉、阿南陸相をはじめ軍部との粘り強い話し合い、そして、何よりも敗戦にあたり天皇の存続を主張し続けた人物でした。

 そんな彼は、永く日本人名を名乗る事も許されなかった旧薩摩藩の朝鮮陶工集落の出身であり、彼は戦時中、心ない人達から差別的な誹謗中傷を受けながらも、日本人として、日本の将来のために命をかけて戦争を終結に導きました。そして彼の祖先もまた、「文禄・慶長の役」という戦争の犠牲者でありながら、その運命を背負い、日本の地で必死に生きてきた人たちだったのです。

 あの日の「御前会議」集まった人たちは、天皇であれ、外交官であれ、軍人であれ、それぞれ選択の余地のない、過酷な運命を自ら背負っていたのでしょう。
 平和な時代が続くと、「運命を背負う」などと云う言葉は、僅かに特別な環境や経験をした人間でなければ、自覚することは難しいのかも知れません。しかし、戦争のような、「時代の大きなうねり」の中では、多くの人は、過酷な運命を背負わなければ、ならなくなるのは必定です。

 今回の天皇陛下の生前退位のご発言を聞いたとき・・・8月8日というタイミングもあり、私は御前会議での昭和天皇ご聖断を思い出ました。
 本来今回の事は、陛下のお言葉通り、ご健康、皇室の将来についてのご発言と解するべきなのでしょう。しかし、陛下自身が皇太子としてご幼少の時から、戦争の恐怖と不安を身を以って感じて来たという特別な環境と経験を有し、また初めから平和の象徴として生きるという「運命を背負った」天皇である以上・・・今回のお言葉が、不穏な時代への警鐘を含んだ、どこかご聖断のように…聞こえてしまったのは私だけなのでしょうか・・・。

 真夏の終戦記念日を前にして想ったこと・・・。

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