見出し画像

どうか、孤独に強くなって下さい。

世間では悲しいことに自死の連鎖が続いています・・・

 先日、仕事仲間の作家さんから自分の友人の子供が自殺をして、どういう風に声を掛けていいのか分からない・・・また、違う若い作家さんからは、どうしてこの頃自殺が多いんですか?という話題を振られましたが、その時は時間がなく話が出来ませんでしたが、この場を借りて・・・

 むかし、知り合いの心理学者と話をしていたら、こんなことを教えてくれました。
 命に係わる大きな病気をして、それを克服した人間や、深刻な出来事に出会い死を覚悟した経験を持ち、そこから立ち直った人間は、その後の人生に於いてどんな困難な出来事に遭遇しても、自らの命を絶つ確率は低いと。私はそのことに深く納得した記憶があります。

 私は学生時代に少々宗教学や仏教学というものを学びましたが、宗教や仏教というとどこか呪術的なイメージだったり、難解な教理をイメージされる人が多いと思いますが、呪術や教理はその枝葉に過ぎず、その本質は「人はどう生き、どう死んで行くか」(生死観)という命題に真剣に向き合うのが、その本来の姿です。

 仏教学の学者であり、禅僧でもあった恩師の鈴木格禅先生は著書の中で、こう述べられています。
「己における死の見つめは、そのまま生のみつめである・・・真に己の死を熟視し得た人にして、初めて真に生きることができる・・・」

 先に述べたような経験を持つ人間以外にとって、死を日常において想起することは難しく、言葉の上で「人間はいつか死ぬんだから」と人は言いますが、それは未来の出来事としての捉えです。

 真に己の死を熟視する・・・という事は、自分は明日死ぬかも知れない、今日死ぬかも知れない・・・生の保障などどこにもないという事を心に刻むことです。
 その気づきは、今その瞬間、己に与えられた時間を如何に集中して生きるか・・・それが「初めて真に生きることができる」という意味だと解しています。

 さて、本題の人が自死を選ぶということは、己の過去を深く後悔し、未来に強い不安を抱き、今に絶望することを意味します。そして、そこに存在すのは強い人間の孤独感です。
 人をその孤独から救ってくれるのは、家族、友人、師と仰ぐ人間から差しのべられた救いの手なのですが・・・しかし、それを常に掴むことができるとは限りません。

 では、どうすればいいのか、それは己が孤独というものに強くなるしかないのです。
 孤独に強くなるとは何か・・・人はひとり生まれ、ひとり死んで行くという自明の理を心底に叩き込む以外になく、それは他者への甘えが排除された精神を持つこと・・・それが孤独に強くなるという事なのかも知れません。そして最終的に己を救うのは己でしかない、ということです。

 こんな事を言うと、あたかも人から孤立して生きることを勧めているように感じるかも知れませんが、決して人は一人では生きて行けません。

 このことを随筆家の白洲正子さんは、著書(「西行」)の中でこんな風に述べています。
「人間は孤独に徹した時、はじめて物が見えて来る、人を愛することが出来る、誰が云ったか忘れたが、それはほんとうのことだと思う」

どうか、孤独に強くなって下さい。
そうすれば、自死を選ぶほど追い詰められ時でも、人は自分が見えて踏みとどまることが出来、そして本当の意味で、人も自分も愛する事が出来るのかも知れません。
経験を含めて、私はそう思っています・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?