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「最後の恩師」追悼の想いを込めて


 私に茶道と華道の手解きをして頂いた元帝国華道院の理事長を務められた恩師・関江松風先生が天寿を全うされました。
 生前は本当に可愛がって頂きました。

 先生に習い始めた二十代の頃、「君にはお免状はあげないよ…女の子には将来何か生活の為になればとお免状はあげるけど、君みたいな男にはお免状などあげない…その代わりどんな偉い人と同席しても動じないお茶の精神と振る舞いを教えてあげる」そう言われました。

 三十代の頃はまるで戦争のような日々を過ごしていた私でしたが、週に一度東京谷中にある禅寺の名刹全生庵での夜のお稽古には、必ず顔を出した。その時間は苦しい現実から少しの間、私を解放してくれた。
 ある日、いつものように乱暴に寺の玄関わきに車を乗り付け、子供の頃から住職に可愛がられていたので、まるで我が家のように無作法に寺に入った。
 お稽古をしている書院のいつもの障子を、これまた無作法に立ったまま「先生、近藤です遅れてすみません」と開けようとしたとき、中から先生が「今日はそこは開けてはダメ」と大きな声が返ってきたが、そのときすでに遅し、私は勢いよく障子を開けていた。
 目の前には、体格のいい初老の男性の背中、その頭はバーコード状に禿げていた。見た瞬間心の中で「まずい総理だ!」呟いた。

 実は当時現役の総理大臣だった中曾根康弘氏が、この寺の住職に座禅の指導を受けていた。
「ご無礼致しました」と言って改めて違う障子から書院の中へ入ると、先生は怒っているような笑っているような微妙な表情で「近藤君、罰です…総理にお茶を点てなさい」と静かに言われた。私は無言で頷き、ヨレヨレのネクタイ姿のままお茶を点てた。総理は置かれた茶碗を前にして手をつき「お点前頂戴いたします」深々と頭を下げた。緊張感はあったが、何故か臆することなく、いつもより平常心でお茶が点てられたことを記憶している。
その時目の合った先生は、何とも言えない笑みを浮かべていた。

「寺の門を一歩入れば、殿様も賤民もみな仏の前では平等」これが仏教や禅の精神。茶道でも「茶室の躙り口をくぐれば、世俗の身分は関係なく、亭主と客の関係のみ」先生はそんな精神を私に叩き込んで下さいました。

 ある晩、ほかの生徒のいない書院で二人でお茶を飲みながら、雑談のつもりで先生に「先生は戦争の時はどうされていたのですか」と訊ねると少し真剣な顔になって「近藤君にだけには話すけど…そして最初で最後だよ…」と前置きをされてから
「実は僕は回天の生き残りなんだ」
回天とは第二次大戦末期に人道を無視して行われた、あの人間魚雷のことである。
そして、いつもとは少し違う口調ではなし始めた。
「神風特攻隊の連中はまだいいよ…全員とは言わないまでも多くの人に見送られて華々しく出撃出来たが…僕ら回天の連中の多くは、秘密の入り江から極秘裏に誰の見送りなく静かに出撃した…僕は終戦で生き残ってしまったけど…いまでも先輩や同期の連中のことを思うと無念…無性に胸が痛む」と言ってお茶を飲み干された。

 私の学生時代の恩師であり、禅の師と仰ぐ鈴木格禅先生は神風特攻隊の生き残り、そして私に本来の茶道の精神を教えて下さったのが、人間魚雷回天の生き残りの関江松風先生。お二人とも優しさの中に、あの時代を生き延びた人間独特の「生死」(しょうじ)を見据えることの出来る強い人格の持ち主でした。

 成功少なき人生を歩んできた私ですが、この歳になり師との出会いだけは人よりは恵まれていたとつくづく思います。

 関江松風先生は華道の家元と茶道の宗匠という厳格なお立場とは別に、江戸っ子として洒落と遊び心も忘れない方でした。年に一度のお茶会では、お客様の緊張をほぐすため、先生と私でまるで掛け合い漫才のようにお客様を笑わせたことを今でも覚えています。そこで本来のお茶席でのご接待を私は学びました。

 先生との出会いは私の人生において掛けがえのないものでした。そして本当に有難う御座いました。ここにご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 追悼の想いを込めて…出来の悪い弟子より。近藤智禅 合掌

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