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歌を歌うきらめく正しい女の子と、深夜に陰気な小説を書くわたし

高校の同級生に、歌を歌う女の子がいた。容姿もかわいらしい彼女はかわいらしい洋服をいつも身に纏い、聡明で、感受性が強くて、性的なものを嫌悪する、どこまでも正しい女の子だった。

2年生の合唱コンクールのとき、彼女がクラスの発表とは別に、ピアノを弾く子とユニットを組んで有志で出場したのを覚えている。なにを歌ったか、どんな歌声だったかとかは全然覚えていないけれど、客席から彼女を見ながら「あんなふうになれたらよかった」と静かに絶望したのは今でもはっきりと思い出せる。

そのころのわたしは、FC2ブログで小説を書いていた。ブログで小説を書くようになったのは中学に上がってすぐの頃からで、わたしは高校を卒業してブログを畳むまでの6年間、ほぼ毎日せっせとショートショートやら短編やら長編の連載やらエッセイやらをネットの海に放流し続けていた。

昔からわたしの書く小説は陰気だった。たいていは誰かが恋に破れ、セックスをして、死ぬような、そんな小説ばかり生み出していたような気がする。それも、男の子同士の恋愛が主だった。村上春樹やヘッセ、竹宮惠子に心酔していたので、当然といえば当然の流れかもしれない。

そのときお年玉をはたいて買ったパソコンは、分厚く重たくとてもじゃないけれど持ち運びなんてできるシロモノではなかった。なのでわたしは、いつも無印良品のノートを持ち歩いていた。授業中や家で机に向かわされているとき、わたしはそのノートに小説の草案のようなものを書いていた。それにノートのほうが、先生にも親にもばれにくいから。家族が寝静まった深夜、ひっそりとパソコンを開いてノートの内容を推敲しながらブログにUPする、そんな毎日だった。

小説を書くことを、ほとんど表立って誰かに言うことはしなかった。「オタク」っぽい趣味であることは自覚していたから。わたしが中高生のときは、「オタク」――特にBLは恥ずべきものとして認知されていた。エセ純文学の皮をかぶっていたとはいえ、少年同士の恋愛を描いた小説を世の中に放っていることが同級生に知られたら、自分の地位が危うくなることを痛いほど理解していたのだ。

わたしは学校生活での失敗を、極端に怖れていた。最初に入った私立の中学校(お嬢様女子校)ではちゃめちゃに虐められ1年足らずで不登校になってしまってから、二度とヘマはするまいと細心の注意を払って過ごしていた。転校後の共学の中高一貫校は、他校に比べればいわゆるスクールカーストのようなものががっちりと存在していたわけではなかったけれど、声の大小はもちろん少なからずあった。

わたしは声の大きい子どもだった。グループに所属していなかったことや、髪を明るく染めていたこと、なにより「女性」性を消し去ったような少年のような格好をしていたことで、それなりにうまく過ごすことはできていた。声の大きさは、自由度だ。大きければ大きいほど、多少のドジを踏んでも許される。咎められない。目をつけられない。

だから小説を書いていることは、隠し通す必要があった。転落だけはしたくない。この狭い世界で自由に生きられないのは、笑われるのは、惨めな気持ちになるのは、もうごめんだった。

ステージ上で歌う彼女を見たとき、なぜわたしは歌を歌う人間ではないのだろうと思った。歌を歌う子が「歌が好きです」と言っても、転がり落ちることはない。華やかで、きらめいていて、憧憬の対象にすらなれる。

彼女を妬ましく思っていた理由は、それだけじゃなかった。彼女はあまりにも、わたしにとって「正しすぎる女の子」だった。母の望む、かわいらしい洋服の似合うかわいらしい顔立ちのかわいらしい女の子。身長はわたしのように低すぎず、それでいて高すぎず、お勉強ができて、感受性の強い、性的なものを汚らわしいと認識する、彼女はそんなきらめく正しい女の子だった。

とても彼女のようにはなれなかった。わたしの顔立ちはつり目とエラのせいできつく、と彼女の纏うような正しい女の子のひらひらした服は似合わなかった。成長するにつれきつさを増すわたしの顔に、母はそれでもめげずにしょっちゅう購入してきたひらひらした服を当てがった。その度「あんたはほんとにこういう服が似合わへんなあ」と残念そうにため息をついていた。

母はそのころにはもう、わたしが「女の子」ではないことに薄々気がついていたのだろう。わたし自身も、「女の子」でないことに自覚はあった。そして、決定的なことが起こる。それは2年生の終わりの、駅前のコンビニでの出来事だった。

歌を歌う彼女とわたしには、数名の共通の友人がいた。わたしは彼女を妬ましく思う反面、好かれたかったので、よく複数名で放課後遊んだりしていた。彼女がわたしを嫌っていることもなんとなく察していたけれど、それには必死で目を瞑っていた。

冬が終わり春休みを目前に控えた3月のある日、「暖かくなったので学校の近くの公園にでも行こうか」という話になった。駅前のコンビニでお菓子やジュースなどの買い出しをしているとき、ふと雑誌のコーナーが目に入った。そのうちのひとつの表紙に、わたしは釘付けになった。

あるグラビアアイドルが、水着を着てポーズを取っているものだった。よくある猥雑な青年誌で、それが視界に飛び込んできた瞬間、わたしは体の奥から湧き上がるような衝動を感じた。生まれて初めての、性の欲求だった。触れたい、とたしかにそのとき本能的に思った。

性欲の萌芽に冷水を浴びせたのは、他でもない彼女だった。雑誌に見入っているわたしに気がついた「正しい女の子」は、「きもちわるーい」と心底軽蔑した目で呟いた。わたしは、その瞬間、その気持ちをその記憶ごと、封印した。段ボールに詰め込んで、ガムテープでぐるぐる巻きにして、地下室の奥の奥のそのまた奥の倉庫に放り込んで、厳重に鍵をかけた。

自分でも何が起こったのか、当時きちんと把握はできていなかったように思う。というのもわたしはそのとき、まだ女性に恋をしたことがなかったのだ。そのころは好きな男の子さえいた。その恋心が、たとえ性欲を伴わないような幼いものであったとしても、恋の対象は男の子であると信じて疑いもしなかったのだ。

わたしが初めて女性に恋をしたのは、もっとずっと後のことだ。高校を卒業して浪人していた予備校で知り合った、ひとつ年上の女の子。彼女が他の男に恋をしたり、寝たりするたび、わたしは予備校のトイレでひとりしくしくと泣いた。そのくせに、そのときはそれが「恋」だとは気がついていなかったのだけれど。

恋心より先に、性欲を覚えた。そのことに自分自身、びっくりして、困惑して――なにより恥ずかしくて、わたしは封印した。そのため、わたしが女性にも恋をしたり性欲を抱く人間だと自覚したのは、20歳をずっと過ぎたあとだった。カウンセラーさんと一緒に地下室まで降り、奥の奥のそのまた奥の倉庫の鍵を外し、時間をかけて開けていった段ボールたちの中身のひとつがこの記憶だった。

「正しい女の子」とあなたは似ている、と卒業したずっと後になって共通の友人に指摘されたことがある。在学中からなんか似てると思ってたよ、と彼女は言った。でもわたしには、いまいちピンとこなかった。

彼女は感受性が強すぎるあまり、人前でも躊躇わずによく泣いた。怒りや苛立ちを頻繁にあらわにしていた。感情を出すことにてらいがなかった。彼女もまた集団に所属することが苦手だったようで、それでも、それを隠さなかった。隠さないことが、彼女のきらめきをますます増長させた。わたしとは違って。必死で取り繕うわたしが、彼女を見ていると余計に滑稽に思えて、だからひどくイライラした。

家族仲も良好で裕福な“機能全家庭”で育てられているというのに、たかが失恋くらいで世界の不幸をすべて背負っているみたいに振る舞うその様に、嫌悪感すら覚えた。わたしは転落を怖れて、小説のことはおろか家庭のことすら誰にも言えないでいるというのに、と。それなのにわたしは、なぜか彼女に執着していた。

卒業してもなお、彼女の見下すような蔑むような目を忘れることができなかった。彼女はわたしを嫌っていたのだが、なぜ嫌われているのかもそのときはわからなかった。わからなかったけど、そのことでわたしは相当傷ついていた。

だから彼女のことを忘れるように努めた。あんな人はいなかったのだ、わたしの人生には存在していない――そう思い込もうとしていたのだけれど、「思い込もうとしている」時点で気になって仕方がないことは明らかだった。感情が爆発したのは、共通の友人から「彼女があなたの話題をよく口にする」と聞いたときだ。

その話を聞いて、とてもうろたえた。どうしてあなたがわたしの人生にまだ踏み込んでくるのか、わたしはあなたの目に何年も囚われ続け、苦しんでいるというのに。解放してくれ、関わらないでくれ、もうそんな目でわたしを見ないでくれ。その一心で、わたしは、Facebookのメッセンジャーで彼女にメッセージを送りつけた。

「あなたがわたしのことを嫌っていても、蔑んでいてもかまいません。あなたがわたしの頭の中にはゴミのようなものしか詰まっていないと思うのも仕方がないことです。でも、もうわたしの情報を誰かから聞き出そうとするのはやめてくれませんか。」

返事は驚くほどすぐに来た。「私はあなたの頭の中にゴミのようなものしか詰まっていないなんて、誰かに言った覚えはありません。でも、あなたの名前を口に出していたということは、少なからず私もあなたのことを気にしていたのかもしれませんね」と。

そしてその日のうちに、彼女とわたしは新宿駅で会うことになった。共通の友人にそのことを知らせると、「急展開だね」ととても驚いていた。卒業してから実に4年もの月日が流れていた。汗ばむ真夏の夕方、早く着き過ぎたわたしは喫茶店で彼女を待っていた。待ちながら、何を言うべきか考えていた。小説を書いていることは言おう、と決心していた。わたしはくだらない人間なんかじゃない、見下されて蔑まれるような存在じゃない、と彼女に証明したかった。

ほどなくして現れた彼女は、卒業間近にショートカットにした髪を再び腰辺りまで伸ばしていた。驚いたのは、彼女から当時感じられていたきらめきやカリスマ性のようなものが、さっぱり失せていたということだった。

わたしと彼女は、そこで1~2時間ほど会話をした。近況報告的に雑談をする中で、話題は共通の友人に移った。そこでの彼女の友人についての見解というか分析が、意外なほど的外れだった。そして、気がついた。いつも完璧で、頭が良く、なんでもお見通しだったきらめく「正しい女の子」は、実は「普通の人」だったんだと、そのときはじめてわたしは知った。あのときたしかに感じていた彼女のきらめきが、正しさが、絶対性が、あっけなく溶けて消えた。

なぜわたしが嫌いだったの、と問うと、彼女は「あなたはいつもいろいろなものを抱えていて、情報過多で、一緒にいると呑まれてしまいそうだったから距離を置いていた」と答えた。ああ、見下されていたわけじゃなかったんだな、と心から安堵した。

「あなたのことが好きだったんだと思う、だから嫌われて傷ついたのかも」と言うと、彼女は「そう、それもわかっていた。だから余計にしんどかった。だって、私が悪者みたいじゃない」と答えた。その言葉を聞いて、ようやく、わたしが彼女に抱いていた気持ちの答えを、その形を、輪郭を、はっきりと手のひらに感じることができた。

わたしは彼女のことが好きなわけではなかった。その証拠に、わたしは彼女の歌声すら思い出せない。どんな声だったか、どんなふうに抑揚をつけるのか、どんなジャンルの歌を歌うのかさえ、わたしはかけらだって思い出すことができないのだ。わたしは嫌われたことに傷ついていたし、怒っていたけれど、悲しんだりはしていなかった。

わたしが彼女と仲良くなりたかったのは、彼女に好かれたかったのは、彼女が「正しい女の子」だったからだ。「正しい女の子」から認められれば、親密になれれば、わたしも「正しい女の子」になることができるんじゃないかと思っていた。ひらひらした服を着ることが許される、きらめいた存在になることができるんじゃないのかって。母の望む女の子になれるような、そんな気がしていたのだ。

下卑た存在なんかでなく、頭の中にゴミしか詰まっていないような存在でなく、彼女と同列に並べる存在になれると思っていた。わたしは、彼女の本質を理解したいとか、彼女自身に惹かれていたとか、そういうわけじゃなかったのだ。

話すべきことを話し終えると、わたしたちは店を出た。別れ際、新宿駅で彼女は「またね」と言って手を差し出してきた。「来てくれてありがとう」とわたしが言うと、「こちらこそ」と彼女は言った。結局わたしは彼女に、小説を書く人間であることは告げなかった。

それきり彼女には会っていない。そのあと彼女のFacebookをフォローしたけれど、数年後いつのまにか友達から外されていた。でも、そのことはさしてわたしの心に影響を及ぼさなかった。たぶん、彼女にはもう二度と会うことはないのだろう。胸のつかえはもう取れた。会う理由もない。憧憬も嫉みも、もう、ない。

共通の友人には卒業後――というかごく最近、わたしが「女」ではないことと、女性にも男性にも恋をすることを伝えていた。カウンセリングでこの記憶の段ボールをこじ開けた帰り道、わたしは不意に雑誌の表紙のグラビアアイドルが誰だったか思い出した。もうずっと長い間、それが誰だか忘れていたのに、10年ぶりに開けたパンドラの箱は、そのときの景色を鮮明にわたしの脳裏に蘇らせた。

思い出した瞬間、わたしは歩きながらiPhoneをポケットから取り出した。LINEを開き、友人にメッセージを打つ。「あのさ、篠崎愛ちゃんってかわいくない?」と。

彼女の性的なものへの徹底的な嫌悪は、今冷静に考えるとちょっと不思議だ。歌を歌い、曲を書くような人なのに。それともなにかの裏返しなのか、はたまた単に彼女の性質であるのか、今となってはわからない。知る術もないし、知ったところで意味もない。知りたいとも思わない。

LINEの返信は思いの外すぐに来た。「あー、たしかにチカゼのタイプっぽい」と、茶化すでなくからかうでなく、自然な言葉が画面に表示されていた。わたしは嬉しくなって、夫の待つ家へ帰る道をスキップする勢いで歩いた。たぶんわたしはこれからも小説を書くのだろう、と思いながら。

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