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高松塚壁画館・明日香村に遺されたもの②

前回はこちら↓↓↓

明日香村といえば「石舞台」かもしれませんが「高松塚古墳」が浮かぶ人も多いと思います。
日本初の華麗な壁画古墳として一躍脚光を浴びたこの古墳は、未だに被葬者も確定できないなど、数々の謎を持つ7~8世紀の古墳です。
いったい、それはどのようなものなのか?
まずは見てみて、その感想をまとめてみたいと思います。

訪れたのは7月26日でしたが、実はその翌日の27日から一週間、本物の高松塚壁画の公開期間だったのですが、あえてそれには申し込まず、何もない日に訪れたのは、古代史に疎い私がいきなり本物の壁画を観察しても何もわからないだろうと思ったからです。

ちょっと事前リサーチしてみると予習できる施設があるようなので、本物を観察するには、まずは基本的なことを学んでから行くべきだと思いました。

緑の多い田舎道を進んでいくと、案内板がありましたが、その先の道は田んぼのあぜ道かと思うぐらいの細い道で、一瞬ためらいながらも慎重に車を走らせて向かいました。

細い上にくねくねした道なので、
大きな車なら脱輪する可能性がある💦


偶然の発見と超スピード国宝指定

今から52年前、昭和47年(1972)に、日本初の極彩色壁画が発見されて大騒ぎになったことは、当時小学低学年だった私にもうっすらと記憶にあり、この記事のサムネイル画像には、ほとんどの方は見覚えがあるのではないでしょうか。

当時さんざん新聞やテレビを賑わせ、その時の代表的な画像で、「高松塚」といえば「古墳(墳丘)」よりもこの「飛鳥美人」と言われた女性たちの壁画が頭に過るはずです。
その後には教科書にも掲載されましたが、当時の私の記憶は曖昧ではっきりと憶えていません。

🍃生姜しょうがの貯蔵庫を求めて

古墳発見のキッカケは全く偶然でした。
昭和37年(1962)年頃、村人がただ単に生姜を貯蔵するために墳丘南側に直径約60cmほどの穴を掘ってみると、その奥に擬灰岩の四角い切石が見つかりました。

慎重というべきかなんというべきか、発掘調査が始まったのがそれから10年も先の昭和47年ですので、なんとも気の長い話だと私などは思ってしまいます。
しかも最初は前回の記事で触れた三村合併で明日香村誕生15周年記念として村史編纂の一環としての調査だったのです。

🍃考古学史上まれにみる大発見

まずは四角い擬灰岩の切石を調べると、盗掘に遭った形跡がありました。
(推定:鎌倉時代)
その盗掘抗の中に横穴式石槨せっかくが発見されました。

ちなみに石槨せっかくとは、棺の外箱●●のようなもの。
(人が立って歩けない)
石室は石槨せっかくを置く部屋●●
(人が立って歩ける)

さらにその盗掘抗の土を払っていると穴が開き、中を覗き込むと極彩色の壁画が石室の壁面に確認され、これが世紀の大発見となりました。
昭和47年3月21日正午過ぎの事でした。

翌月の4月7日には国の管轄となり「文化財保護審議会」にかけられ、そこから3ヵ月で正式に史跡として認定、さらに1年後には「特別史跡」。
そして発見から2年後の昭和49年4月17日、壁画は国宝、その他の出土物は重要文化財に指定されたのです。

私のような素人には、決して早い決断だとは思えないのですが、発見から2年での文化財指定は異例の速さでありスピード出世と言えるのだそうです。


高松塚壁画館

まずは壁画について詳しく知るために「高松塚壁画館」を目指しました。
いったん古墳を素通りしてその西側に回り込むと、「飛鳥」と書いた赤い看板を見つけ、その奥に山の木々と一体化したような入り口が確認できました。

緑の中の奥まった入り口なので、
ちょっと不気味ですらある。

入館料も300円という安さなので、外観も考慮して大したものではないだろうとなんの期待もせずに入館しました。

全てレプリカなので、
ほとんど撮影規制はありませんでしたが、
残念ながら奥の石槨せっかくのみ撮影NG。

ところが、一歩入って館内を見回して一瞬で目を奪われてしまいました。それからゆっくり館内を一巡すると、じわじわと静かな感動が湧き出てきたのです。

もちろんすべてレプリカではありますが、昔、さんざんメディアで見た壁画が薄暗い中に浮かび上がっているような展示は、どれを見ても素晴らしく精巧に再現され、しかもそれぞれにわかりやすい解説がありました。

まとめて画像化すると以下の通りです。

天井部:星宿図
壁面:日月像・四神しじん・人物像
高松壁画館リーフレット

🍃方位を示す「四神しじん」と「日・月像」

四神とは、
・東「青龍せいりゅう
・西「白虎びゃっこ
・南「朱雀すざく」盗掘で壊された?
・北「玄武げんぶ」亀と蛇

これらは方位を表し、四方を鎮護する神として星座の形から具象化したもので、東と西、日と月という一対の表し方は陰陽道に通じ、中国や高句麗の壁画古墳に見られるものです。


☝アハ体験1
これら四神のラインナップを見て、思い出したのは先月訪れた薬師寺です。
ご本尊の薬師如来の台座に描かれていたのもこの四神ではなかったか?

「薬師寺」ー西ノ京、世界遺産の大寺たち①の画像より、
さらに加工したもの。
各楕円形内のものが高松塚古墳壁画の四神。

薬師寺の四神は奈良時代なので進化しているためか、高松塚壁画とは構図が違い、比較するとその時代のトレンドが表れていて面白いです。


🍃星宿図

星宿とは星座の事で、これは東洋の星座というべきなのでしょうか?
約1m四方の正方形の中心に「天極(北極星)」がありそれを護るように四輔しほがあり、四方に各7宿、計28宿が描かれています。
それぞれの宿(星)は黄色(金箔)の丸で、赤い線で結んで形を表して描かれているのです。

私たちが知る星座表はこれが元だったのですね。

今年の大河「光る君へ」でもわかるように、この天文や星座が陰陽道へと発展し、政治の采配や日々の生活における様々な出来事を占っていました。
今の私たちには非科学的な「迷信」に過ぎない事は、当時の人々にとっては、壮大な天文と結びつけた「真実」とされていたのです。

東洋も西洋も同じ星空を観察し、天の星々を重要視し、星と星を結んで星座を連想し、神話が生まれ、やがては暦として政治や日々の生活にまで利用していたのは、偶然なのでしょうか?
それともどこかが発祥地で、そこから世界に伝えられたのでしょうか?

古今東西において星空は今もなお、離れた地に住む私たちに宇宙の心理を伝えてくれているのです。


☝アハ体験2
かなり時代は遡りますが、古代メキシコでは紀元前15世紀から栄えた文明を持っていたのは、天文を最重要の研究材料とし、天体と暦を熟知していたからです。
それを「古代メキシコ展」で知り、驚愕したのを思い出しました。

メキシコとは大陸どころか海を隔てた全く正反対の位置にある国なのに、これらとは関係があるのでしょうか?


🍃人物群像

高松塚古墳壁画の世界

男子4人、女子4人の2組ずつが東西の両壁に描かれています。
いずれも鮮やかな極彩色で、さらに驚くのは遠近法や立体感を十分に取り入れた構図である事です。
それぞれ4人の立ち位置が視点から遠いのか近いのかが明確で、彼らの間の空間も感じ取れるのです。

特に東壁の女子群の奥の1人が真正面を向いている描き方は、当時の絵画では画期的なもので、構図や筆致、色使いに至るまで卓越した技術が伺えます。

これらの壁画は、壁面に薄く漆喰を塗った上から描かれた本格的なもので、中国や高句麗、百済などには多く見られますが、日本ではこの「高松塚古墳」と「キトラ古墳」のたった2例だけなのです。


墳丘を眺めて妄想する

壁画館を出て、再度、墳丘あたりを散策して眺めてみました。

2段構成で、直径は下段:23m、上段:17.7m。
中心に被葬者を安置する石槨せっかくがありました。

出土した人骨から身長約163㎝筋骨逞しい熟年男子である事が推定され、副葬品や埋葬の状態から、被葬者はかなり身分の高い人物であると考えられていますが、様々な説があって特定できていません。

この辺りは飛鳥宮の南西にあり、古代は「檜隈ひのくま」と呼ばれ、古墳や陵墓が多く存在する地域であり、当時は多くの渡来人が居住していた事がわかっています。
もしかしたら、百済の王子などの大陸からきた高貴な人物の可能性もあるのです。

1400年以上も前の古代に思いを馳せ、いつかまたこれらが解明される発見がある事を祈るばかりです。
今のところ国宝指定ですが、世界遺産に登録されるのも近いのではないでしょうか。


☝アハ体験3
墓道への入り口を見て、5月に訪れた法隆寺西側の「藤ノ木古墳」の石室内が蘇りました。

「法隆寺」を堪能する-第2回~藤ノ木古墳

ほぼ同時期だとみらる藤ノ木古墳は直径50mで、これに比べるとかなり小さいものですが、石室内は壁画が描けるほどの切石が囲んでいたのだと、想像すると、まさしく感動ものです。

藤ノ木古墳では石室の中に直に棺があるようですが、高松塚古墳では石室そのものが石槨せっかくだという事でしょうか?


あまりにも壁画に見とれてしまい副葬品をスルーしていたことに、後になって気付きました。
というわけで、このあと早速、キトラ古墳壁画を堪能しに向かいました。




【参考・引用】
・高松塚古墳壁画の世界
国営飛鳥歴史公園
朝日新聞デジタル
古星図に見る歴史と文化 


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