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日本初の本格寺院「飛鳥寺」・明日香村に遺されたもの⑥

前回はこちらです


「橘寺」からやや東寄りの北へ1.5Kのところにある「飛鳥寺」へと向かいました。

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コトバンクによると、この飛鳥寺を中心にした一帯の古称を真神原まかみがはらと言い、「万葉集」にも”大口●●の真神の原”と歌われ、「大口の」はオオカミの大きな口をイメージさせる枕詞なので、この飛鳥中央部は「真神まかみ」すなわちオオカミのすむ原野であったと想像されています。

いきなり話は逸れますが、ここで思い出されるのはジブリ映画「もののけ姫」に登場した犬神・モロ「ゴールデンカムイ」のエゾオオカミ・レタラです。
彼らは、かつて日本のあちこちの原野に生息していたオオカミたちのおさとして、本当に存在していたのかもしれません。
そして人々はそのおさオオカミに尊敬と畏怖を抱いて「神」と崇めたのは、日本人が豊かな自然に感謝し、共存してきたことに他ならず、「仏教伝来」以前に、魂レベルで自然神を崇拝する「神道●●民族」である事のあかしのように思えるのです。

太陽神の天照大神を筆頭に、様々な自然神が登場する「神話」のほとんどが作り話だとしても、ごく当たり前にあらゆる自然から享受した豊かな恵みのおかげで生活は成り立っていると十分に理解していた事は確かなのです。
だからこそ、この自然の中に自分たち人間と同じように太古から生息していたオオカミを自然界の「神」として讃えたのも当然の事なのでしょう。

そう思いながら、古代の原野を想像すると、とんでもなく壮大な風景と悠久の歴史を感じずにはいられません。


日本初の首都・「飛鳥京」の中心

🍃日本が文明国家となった始まりの地

596年、推古天皇の統治時代に、「④石舞台古墳」でご紹介した豪族・蘇我馬子そがのうまこが一族の氏寺として創建した「法興寺」が元と伝わる日本初の本格仏教寺院です。

正確には大阪の「四天王寺」の方が593年創建で3年ほど早いようですが、造営が始まった時と完成した時のどちらを創建年とするかで差が生じ、どちらもほぼ同時期の593年頃と考えられています。
この3年の差は当時の建設の進捗状況によるもののようです。

同じ奈良県の桜井市にある「長谷寺」を総本山とする真言宗豊山ぶざん派の寺院だと後で知りました。そういえば、真言宗開祖である弘法大師空海の像もありましたね。
どこの寺院でも空海の像はあるので気にも留めず写真も撮りませんでした。

伽藍の大半を焼失したのは鎌倉時代の事で、現在の本堂は江戸時代に再建されたものだそうです。

1826年に再建された本堂

創建当時は極彩色の本堂でしたが、二度の火災に遭い再建したそうですが、どうして元の極彩色に再建されなかったのでしょう?予算不足でしょうか?できるだけ元の状態に近い形にして欲しかったと、残念さを感じずにはいられません。

「境内図」
記憶を頼りにCanvaで作成

創建当時は約20倍もの敷地を誇る大寺院で、塔を中心に東、西、北の3つの金堂が配置され、外側には南の「中門」から回廊で囲まれていました。

朝鮮から呼んだ先進的な技術者により、日本で初めて瓦を製造して使用した仏堂や塔の建設にも初めて取り組んだ寺院だったのです。

中金堂が建てられていた位置に現在の本堂があり、ご本尊である飛鳥大仏が今も安置されています。

拝観リーフレットより

この飛鳥寺を中心に天皇の宮が建てられ、中国・朝鮮との交流により学問や芸術などが生まれ、日本初の都として約100年間もの間「飛鳥文化」が栄えた日本の中心地でした。

いわば飛鳥寺は文明国家としての日本の原点なのです。

🍃本尊・飛鳥大仏

今回、何が楽しみかって、これまた以前の四天王寺絵解き話での最大のツッコミどころだった飛鳥寺の「飛鳥大仏」をどうしても見たかったので、内心とてもワクワクしながら訪問しました。


☝アハ体験7

出典:天王寺歴史散歩②四天王寺

トップ画像の通りの当寺の門をくぐった時点で、「なるほどこれは小さいわ💦」と早くも納得。
返す返すも、なぜ測らなかったかったのか?なぜ先にご本尊を設置しなかったか、肝心なところで間の抜けたエピソードに苦笑しかない。
まだ飛鳥大仏を見ていなくても、もし当時もこれぐらいの大きさなら、なるほどこれは厳しい。
私が四天王寺で受けた説明では、大仏をどうにかよじるようにゆっくり入れたら通れたという事だった。
飛鳥寺ではどういう話が伝わっているのだろうと期待満々でご本尊を拝顔した。


本堂内に進み、飛鳥大仏の前に立つと、堂内に5組ほどの拝観者がそろった時、ちょうど僧侶の方が現れて説明が始まりました。

「どうぞどうぞ、撮影は自由ですので思い存分撮影してください。」
と冒頭に促されて、ばっちり撮らせていただきました。

撮影禁止だった先ほどの橘寺とは大違いです
「釈迦如来像」
銅像:飛鳥時代

なるほど見るからに飛鳥仕様の仏様という感じです。
法隆寺と同じく、渡来人とみられる「鞍作鳥くらつくりのとり」作の日本最古の仏像で、高さ:3mで3トンの銅を使い、30kの黄金を使用して作られましたが、今ではすっかり剥がれ落ち銅が剝き出しになっています。

疑問1>なぜ国宝指定ではないのか?
このご本尊は飛鳥寺創建の4年後の609年の作であり、今年でなんと1415年も経つ日本最古の仏像なのに、「国宝」ではなく「重要文化財」なのか不思議です。

実は昭和15年(1940)に国宝に指定されたのですが、10年後に文化財保護法が施行されるとともに、その時点での国宝はいったん重文に変更された上で、改めて国宝が選ばれたのですが、その時の選考に漏れてしまったそうです。

その理由は鎌倉時代・建久7年(1196)、火災に遭った飛鳥大仏は、全体のほとんどが修復され、オリジナル部分は顔の一部や右手の指3本など以外、後世の作とされているかららしい。

しかし、近年、使用されている金属の成分などを調査してみると顔の大部分がオリジナルだと判明。
もしかしたら、近いうちに再び国宝指定される可能性もあるかもしれません。

疑問2>なぜ斜めを向いているのか?
上記の写真は正面から撮っているのにも関わらず、体の向きがやや左に向いているのをお気付きでしょうか?
それは、直線距離で800m先にある聖徳太子生誕の「橘寺」の方を向いているからだとの事です。

ともに物部もののべ氏を滅ぼし、推古天皇を支えた聖徳太子を、蘇我馬子そがのうまこは同志として尊敬して偲んでいたことがわかります。

ここでまた私はツッコミますが、それならご本尊だけを斜めにする前に、敷地全体、あるいは本堂自体を斜め前方の橘寺に向けたらよかったのではないですか?
ご本尊の飛鳥大仏がこの寺のイチオシなら、そうした方が良かったのでは??

疑問3>どのように門をくぐらせたか?
こちらでは推古天皇の命で、なんと門をたたき壊したそうです。
なんとも乱暴で罰当たりな手段が天皇自らの指示だったとは、驚きます。

それにしても寺院や僧侶によって話が微妙に違ってくるのは不思議です。
史書や縁起書にもないのでしょうか?
そもそも、ご本尊ありきの本堂であり門だと思うので、寸法をしっかり計るか、大仏を先に安置してから建築するのが普通だと思うのですが、やはりツッコミどころ満載です。
完全に間の抜けた話なので、何が正解だったかの詳細は遺っていないのかもしれません。

本堂内の他の仏像。
平安時代作のものが火災を逃れていたことが素晴らしい!


🍃蘇我入鹿の首塚

正門の反対側にある「西門」を出ると、甘樫丘あまかしのおかの稜線が横たわり、長閑な風景が広がっています。

この平和な風景に「入鹿の首塚」という案内板は不穏すぎて不釣り合いでした。
気持ちいいと思った瞬間に、急に現実に引き戻された感じです。

入鹿の首塚「五輪塔」

馬子の孫にあたる入鹿が、「大化の改新」で中大兄皇子(天智天皇)らに暗殺されて、撥ねられた首は1k南の「飛鳥宮」からこの場所にまで飛んできたそうです。

入鹿に関しての伝承話には、
”大悪人であり、超自然的な能力を持つ魔人だったから、首が遠くまで跳ねたり、御簾に食いついたりした”
というものがあります。
この五輪塔は鎌倉時代~南北朝時代の建立と考えられているので、後世の尾ひれが付いた作り話の可能性が高いです。

それにしても蘇我馬子が一族の氏寺として建立したこの寺のすぐ近くに、まさか自分の孫である入鹿の首が埋められる事になるとは、当時は想像もできなかったでしょうね。

この飛鳥寺では蘇我氏の栄華の始まりと没落の始まりを見ることができ、なんとも感慨深くなりました。

「入鹿の首塚」から望む「飛鳥寺」


「飛鳥大仏」




【参考】
奈良しあわせ散歩
産経新聞2018/10/27
飛鳥寺


>>>つづく



=明日香村に遺されたものシリーズ=
①日本史の始まりの地
②高松塚壁画館
③キトラ古墳~「四神の館」
④石舞台古墳
⑤聖徳太子誕生の地「橘寺」


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